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下落合を描いた画家たち・高瀬捷三。 [気になる下落合]

高瀬捷三「下落合風景」1925頃.jpg
 山形県の米沢市上杉博物館に収蔵されている、高瀬捷三『下落合風景』は1921年(大正10)制作とされているが、キャンバス裏へ記載があるとか、なにか具体的な根拠のある年紀だろうか? わたしは、画面を観てほどなく描画ポイントを想定できたが、1921年(大正10)では描かれた住宅の建設時期とつじつまが合わないのだ。少なくとも、この風景は1924年(大正13)以降でなければ、下落合の実景とは合致しない。
 では、画面を仔細に観察してみよう。陽光はやや右手から射しており、正面から右手にかけてが南側だと想定することができる。なぜ正面まで南に含めるのかといえば、右手に描かれた坂道の存在だ。東西にのびる目白崖線の、丘上へと通う下落合の坂道のほとんどが時代を問わず、おおよそ南北に拓かれているからだ。しかも、正面に向けて全体の地形が傾斜しているのが画面からは判然としている。正面を南とした場合は右手が西となり、太陽がやや西へ傾いた昼下がりの情景ということになる。
 手前の緩斜面には畑地(ダイコン畑か)が残り、高瀬捷三がイーゼルを据えている地面は、畑地よりさらに高い位置なのがわかる。左手の丘上には、スパニッシュ風(米国西海岸タイプのスペイン風デザイン)の洋館が描かれており、ほぼ同時期に建てられたとみられる赤い屋根の洋館が奥に見える丘上と、右手に描かれた坂道の下にも建設されている。また、地付きの農家とみられる灰色の屋根も、右手の坂下には確認できる。
 右手の坂道には、坂下へと向かう人物がひとり描かれている。この人物の右手には、まるで橋の欄干のような柵(いま風にいえばガードレール)が設けられている。したがって、この柵のさらに右側は、滑落すると危険な深い崖地(谷底)になっているか、あるいは描かれた畑地のある斜面から噴出する、湧水を逃がす水路が設置されている可能性が高い。下落合の斜面=バッケ(崖地)Click!は、関東ロームClick!シルト層および礫層Click!が露出しやすく、自然に湧水が流れでて泉や池を形成したり、農地開墾や宅地造成などで斜面を掘削すると、地下水が噴出するような地勢をしている。
 左手の丘上に建つ洋館群だが、これらの住宅が建てられているということは、丘上に通う道路を想定しなければ不自然だろう。しかも、この道路は左手の住宅群を抜けて正面奥へ向かうとともに、右手の坂道と同じく南へ向け傾斜が深くなるはずだ。そして、丘上の住宅地を南北に通う道路と、右手の湾曲した南へ通う坂道との間には、近接した両坂を往来できる坂道が設置されていた可能性が高い。画面の正面を、左から右へと下がる畑地の変色した草地の境界が、両坂を連結する細い小坂なのかもしれない。
 畑地の土手(境界)にある草が変色しているところをみると、秋の風景だろうか。樹々の葉もやや茶が混じり変色しかかりのように見えるが、落葉がはじまっていないので10月下旬から11月ごろにかけての風景だと思われる。高瀬捷三は、下落合の尾根道沿いを歩くうち、あちこちに建てられはじめたモダンな西洋館と畑地が混在する風景に画因をおぼえ、小高い山の草むらが拡がる斜面へ、画材を抱えながら入りこんだのだろう。左手には、イーゼルを立てた位置とあまり変わらない高さの丘があり、右手の坂道のさらに右側は、谷戸地形で急激に落ちこんでいる。谷底には樹木が鬱蒼と繁っているが、その樹間から谷戸の随所で湧いた小流れが光って見えただろうか。
下落合風景拡大1.jpg
下落合風景拡大2.jpg
地形図1929.jpg
赤土山1936.jpg
 下落合(現・中落合/中井含む)の、特に目白文化村Click!がある中部に古くからお住まいの方なら、すでに画面から描画ポイントを特定できているのではないだろうか。高瀬捷三は、のちに改正道路(山手通り)Click!の工事計画が具体化する1930年代には、「赤土山」Click!と呼ばれることが多くなった丘上の、斜面ないしは崖淵から南側を向いて『下落合風景』を描いている。右手に一部描かれたカーブする坂道は、坂下に向かうにつれて大きく湾曲している、第二文化村からつづく振り子坂Click!だ。
 左手の丘上の、洋館群を縫うようにして敷設されているのは、六天坂Click!筋の三間道路だろう。左端に屋敷の半分ほどしか見えていないのは、六天坂上へ1924年(大正13)に竣工した中谷義一郎邸Click!だ。画面の左手枠外、画家の左横には、同じく赤い屋根をしたより大きな西洋館が建っていたはずだ。有岡一郎Click!『或る外人の家』Click!で描いている、ドイツ人のギル夫人Click!が住む家だ。中谷邸の奥、六天坂へと下る三間道路の右手に描かれているのは、こちらも新築まもない大きな屋敷の上仲尚明邸だろう。
 また、右手の振り子坂沿いに目を向けてみよう。坂下の中ノ道Click!(下の道=現・中井通り)へと向かっているのか、あるいはそこから上ってきたのかは人物の姿勢が曖昧なので不明だが、この時期に西武線Click!はいまだ敷設されておらず中井駅は存在しない。大きく西から東へカーブして、坂下へと抜ける振り子坂の、おそらく右手に建っていた西洋館は竣工まもない陸辰三郎邸で、坂下に近い陸邸の向こう側に見えている古い屋敷は、農家で地主だった宇田川新次郎邸ではないだろうか。
 さて、高瀬捷三について少し書いてみよう。山形県米沢市出身の高瀬が、当初、師と仰いだのは岸田劉生Click!だが、劉生が1929年(昭和4)に死去すると、弟子で同郷だった椿貞雄Click!に師事している。関東大震災Click!ののち、高瀬捷三が出品していたのは春陽会展Click!大調和展Click!であり、のちに国画会Click!展へも出品するようになる。1944年(昭和19)の40歳を迎えた時点で、春陽会展への入選は3回、大調和展で特大学賞を受賞、国画会では13回入選と、洋画家の中堅的な存在になっていた。
 また、この間、椿貞雄が結成し米沢出身の画家たち9人を集めた画会「七渉会」にも、高瀬は積極的に出品している。同画会は1926年(大正15)に結成され、1927年(昭和2)に第1回展を開催している。その様子を、1929年(昭和4)6月9日刊の米沢新聞から引用してみよう。ちなみに、同記事は1992年(平成4)に刊行された「米沢市史編集資料」より。
  
 米沢出身の洋画家椿貞雄氏を中心として、米沢人のみでなる七渉会では、今秋東京丸善本店に於て、第三回の展覧会を開催して、大いに米沢の画家達の腕前を天下に発表すべく目下準備中で、過日千葉県船橋町三丁目の椿氏方で/土田文雄、村山英雄、村山政司、高瀬捷三、上杉勝雄、佐藤豊吉、山下品蔵、志賀三郎、椿貞雄/等の会員が集合し、種々協議するところあった。七渉会は故郷の奇勝関根ナナワタリを偲んで名付けられたものである。
  
高瀬捷三「下落合風景」特定.jpg
春陽会展192603芸天.jpg
七渉会展1931美術新論.jpg
 ここで、下落合の重要な人物が登場している。岸田劉生Click!の愛弟子で、のちに高瀬が師事する椿貞雄だ。椿貞雄は1924年(大正13)から1925年(大正14)に鎌倉町扇ヶ谷192番地へ転居するまで、下落合2118番地に住んでいる。この番地は、翌1926年(大正15)に吉屋信子Click!が自邸を建てる下落合2108番地へ、丘上の道から南へ折れる道路の西側角にあたる敷地だ。ちょうど、四ノ坂と五ノ坂の中間地点にあたる。
 この事実から、高瀬捷三の『下落合風景』は椿貞雄を訪ねたときか、あるいは高瀬自身も下落合の借家に住んでいたか(または椿邸に寄宿していたか)は不明だが、1921年(大正10)の制作ではなく、1924年(大正13)以降の作品である可能性が高いと思われるのだ。そのような経緯を想定すれば、左手に描かれた竣工後の中谷邸をはじめ、周囲に拡がる下落合の風情に時代のズレによる違和感をおぼえないからだ。
 高瀬捷三の『下落合風景』が発表されたのは、1926年(大正15)2月26日から3月20日まで、上野公園竹之台陳列館で開かれた春陽会第4回展であり、高瀬は同作と『鎌倉風景』『風景』の3点を出品している。この時点で1921年(大正10)制作の、つまり5年も前に描いた作品を出展するとは思えない。したがって、『下落合風景』は前年か前々年に制作されたと考えるのが自然なのだ。わたしは、1925年(大正14)の制作ではないかと考えている。また、『鎌倉風景』は同年に椿貞雄が鎌倉へ転居したあと、扇ヶ谷(おおぎがやつ)Click!のアトリエを訪ねて描いた画面ではないだろうか。もう1点の『風景』は、下落合か鎌倉のどちらかの風景作品だろう。
 このように考えてくると、高瀬捷三の足どりがおおよそ見えてくる。彼は1924年(大正13)または1925年(大正14)の秋、椿貞雄のアトリエを訪ねたあと、丘上の道をたどりながら落合第一尋常小学校Click!落合町役場Click!のある東側へと歩いてきた。その途中、赤い屋根の大小西洋館が建ち並ぶ六天坂あたりにさしかかると、画因をおぼえて翠ヶ丘(のち赤土山)のほうへ歩いていった。左手(東側)に見えるギル夫人邸は、いかにもこのあたりに住む画家が描いていそうなので、建設されて間もない中谷邸から振り子坂にかけての谷戸を見下ろす構図で写生することにした……。
 ちなみに、現在は大きく地形が改造され、改正道路(山手通り)の敷設で赤土山は崩されて消滅し(というか逆に掘削された土砂は谷戸の埋め立てにも使われた)、戦後の十三間通りClick!(新目白通り)のより深い掘削工事で、残りの山らしい風情が丸ごと破壊されてしまった。現在は、『下落合風景』の描画ポイントに立とうとしても、クルマの往来が激しい山手通りの真ん中あたりになり、また視点も画面とは正反対に中谷邸のある六天坂の丘を見あげるような、“地下”の視点から眺望するような地形に改造されている。
描画ポイント(現代).jpg
六天坂筋.JPG
中谷邸.jpg
 高瀬捷三が春陽会へ出品した、『風景』というタイトルの画面が気になる。『下落合風景』と同時期の、もうひとつの「下落合風景」ではないだろうか。また、下落合2118番地に1年余ほど住んでいた椿貞雄にも、下落合を描いた作品が存在していないかどうか、これから注意してみたいテーマだ。なお、七渉会の上杉勝輝も『目白風景』『落合風景』を、同じく山下品蔵も『落合風景』を同時期に描いているので、下落合の椿貞雄アトリエを頻繁に訪問していたか、あるいは彼らも近くにアトリエをかまえていたのかもしれない。

◆写真上:1925年(大正14)ごろに制作されたとみられる高瀬捷三『下落合風景』。
◆写真中上中上は、『下落合風景』の六天坂上にある中谷邸と振り子坂の湾曲部分の画面拡大。中下は、1929年(昭和4)作成の1/10,000地形図にみる描画ポイント。は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる描かれた風景界隈。
◆写真中下は、高瀬捷三『下落合風景』に描かれている1924年(大正13)以降に見られた下落合の風景モチーフいろいろ。は、同作が出品された1926年(大正15)2月~3月開催の春陽会第4回展目録で、同年に刊行された「芸天」3月号(芸天社)より。は、1931年(昭和6)に神田文房堂のギャラリーで開かれた七渉会第5回展の様子。右からふたりめに椿貞雄がいるが、高瀬捷三はこの中に写っているだろうか。
◆写真下は、Google Earthで見た『下落合風景』の現状。手前の赤土山は、1940年前後の改正道路(山手通り)と戦後の十三間通り(新目白通り)の工事で全的に失われている。は、坂上から眺めた六天坂の現状。は、1924年(大正13)竣工の中谷邸。

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