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まぼろしの瑠璃山殺人事件 -40年前のカフェ「杏奴」?- [気になる下落合]

 この風景が、どこだかおわかりでしょうか? 東京オリンピックも記憶に新しい1966年7月15日、この河岸段丘の中腹から「殺人事件」の急報が戸塚警察署へともたらされる。「すわっ、殺しだ!」…と、色めきたった戸塚署の捜査員たちは現場へと急行した。宅地造成をしていた業者が、パワーショベルを持ち上げようとしたとき、斜面に大きな横穴が突然いくつも出現。複数の人骨が見つかり、驚いた業者が殺人事件と勘違いして警察へ通報してしまったのだ。
 実は、これが「目白・下落合横穴(おうけつ)古墳群Click!発見の始まりだった。当時は、自分の地所から遺跡が発掘されたら、その調査費用はすべて地主持ち…などというおかしな条例もなく、地主はすぐに工事を中止して新宿区に調査を依頼した。1967年までに、この場所から横穴式古墳は3つ発掘されたが、すでに住宅が建ち並ぶ下落合の斜面全体にも展開されていたのでは?…という推論から、段丘の南斜面を総称するように通称「目白・下落合横穴古墳群」と呼ばれるようになる。時期は8世紀とされているが、わたしは当古墳群の鉄剣(正確には鉄製直刀)や、近くから出土した別の鉄刀の形状も含めて、もう少し古くから古墳群が形成されていたのではないかと考えている。ただ、祖先から伝わった宝刀(貴重な鉄製品)を、子孫が8世紀に副葬した可能性もあるので、一概には決めつけられないのだが…。
 中央の森は、現在の下落合4丁目にある弁天社の裏山「瑠璃山」だ。1964年の風景で、まだ宅地造成は始まっていない。手前の電線は西武新宿線の架線で、十三間通り(新目白通り)は影もカタチもない。当時の住所表記は、下落合2丁目829番地。山頂には広大な西洋館が広がり、左手に見えているアパートは10年ほど前に「エンブレム下落合」へと建て替えられた。その向こう側には、久七坂と聖母坂が入り込む、目白文化村へのメルクマール「不動谷」が大きく口を開けている。写真左下の印の位置が、現在のカフェ「杏奴Click!あたりだ。
 いまは瑠璃山に住宅が建ちならび、「杏奴」の裏道に残る小さな弁天社の境内に、新宿区が用意した人骨と鉄剣の写真入りプレートが、かろうじて残っている。


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ChinchikoPapa

昔の記事にまで、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2014-06-29 20:31) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>さらまわしさん
by ChinchikoPapa (2014-06-29 20:32) 

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