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向こうっ川、誰かを想いてため息つくだじま。 [気になるエトセトラ]

 佃島の渡しに、わたしは何度か乗った憶えがある。1960年代の前半、東京オリンピックが開催される前の話だ。東京都が経営していたが、運賃は無料。佃島へ渡ったあとの記憶は曖昧だが、渡船の印象はいまでも鮮やかだ。ところが、あとでとんだ思い違いをしていることがわかった。わたしは、佃島の渡船はポンポン蒸気だとばかり思っていた。確かに蒸気船には違いないのだが、実際に乗客を乗せて渡していたのは、大川のポンポン蒸気が引っぱる“曳き舟”だったのだ。
 まだ年端もいかない子供のころから、わたしは親父に連れられて東京を隅からすみまで歩きまわっている。当時は、親父の仕事の関係から神奈川県の海っぺりに住んでいたのだが、生粋の江戸っ子である親父はその時期、わたしの帰るべき場所とアイデンティティ形成の実地教育を、意図的に行っていたのかもしれない。親父が佃島にこだわったのは、ここが下町で唯一、関東大震災にも東京大空襲にも焼け残り、昔ながらの街並みを眺めて楽しめるからだ。さらに、大好物の江戸紫(濃口醤油)を使って甘辛く仕上げた、ホンモノの佃煮が手に入るからだったに違いない。
 だけど、当時のわたしは、佃島をはじめ大川端の町々を歩きまわるのが嫌いだった。いまからは想像もつかないが、隅田川や小名木川、神田川はドブ川のような臭気を放ち、町全体に吐き気をもよおすような生臭い匂いがたちこめていた。だから、東京の山手を歩きまわるのは楽しかったが、下町を歩くのは気が重かった。でも、山手を散歩する親父の足は速く、下町を散歩する親父の足はゆったりとして遅々と進まない。両国広小路(両国橋西詰めの薬研堀あたり)の東日本橋、柳橋、蔵前、浜町河岸、人形町界隈を歩いていると、「カクちゃん!」とそこかしこから声をかけられた。(カクちゃんは親父のあだ名) そのたびに、わたしは前へ突き出されて「これがうち坊ずだ」と、町内の人たちへ次々と紹介された。みんな、昭和初期に50銭白貨を握りしめながら、下町じゅうを遊びまわっていた仲間なのだろう。
 親父の千代田小学校(現・日本橋中学校)の同級生で、柳橋で芸者をしていた姐さん(どう見てもおばさんだよ)が引退する会が開かれたころ(ほとんど最後の柳橋芸者だった。なんで子供のわたしが、柳橋芸者の引退式に招かれたのかいまもって不明だが…)、佃島に橋が架けられて渡船がなくなってしまった。最後の渡船には乗らなかったが、親父が残念がっていたのをよく憶えている。江戸からつづく大川の渡し舟で、最後の“生き残り”だったのだ。
 佃島を歩いているClick!と、ふっとどこからか「カクちゃん!」と声をかけられそうな気がする。わたしは「カクちゃん」ではないけれど、「これがうちの坊ずです」と、わたしより背が大きくなりつつあるオスガキどもの、ワックスのきいた頭をぐちゃぐちゃに撫でまわしながら、町の人たちに紹介しそうな気がするのだ。

■写真:上は2004年、下は渡船乗り場のある1959年(昭和34)。佃島を明石町河岸から眺める。


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