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野球場まであった「文化施設」。 [気になる下落合]

 目白文化村の“新しさ”は、住宅街の“異様な”デザインもさることながら、村内に住民が自由に使えた「文化施設」と呼ばれる共有スペースがあったことだ。住民の集会やサークル活動、合唱、ミニ演奏会、映画会などが開催できるクラブハウスをはじめ、テニスコート、柔道・相撲館(人気がなく、すぐに閉鎖されてテニスコートに)、同志会(生活協同組合)、果ては野球場や簡易スキー場まで存在していたという。まるで、現在の東京郊外に造成される都心からほど遠い、新興住宅地の物件チラシにあるような販促用施設だが、大正期に住宅街へこのような施設を建てることは全国でも初めての試みだった。
 多彩な文化施設をともなう、目白文化村のような開発コンセプトが出現した背景には、明治の末期から大正初期にかけて生活改善運動と結びついた「田園都市」構想と呼ばれる、欧米の住宅地の生活を規範とした一大ムーブメントがあった。内務省の官僚らが中心となって出版された、『田園都市』(1907年)も大きな影響を与えている。自然が多く残る都市郊外で、これまでのような封建的な因習にとらわれた生活ではなく、開放的で健康的な新しい生活をスタートさせよう…というのが、当時の住環境における主要テーマだった。
 事実、さまざまな文化的な施設だけではなく、目白文化村に建築された家々は、主人の部屋や書斎、応接間のスペースをなによりも大きくとる従来の間取りから、家族が集まって団欒できる居間やサンルームなどの部屋を最優先し、また家族一人ひとりに個室を設けるなど、それまでの日本の家造りとはまったく異なる画期的な設計コンセプトを採用していた。大正期に一時的にせよ盛り上がったデモクラシズムの風潮と結びつき、現代に直結する日本住宅の規範づくりが、この目白文化村での家造り“実験”Click!だったともいえるようだ。
 また、「文化設備」として電気、ガス、上下水道が完備しており、しかも住宅街の景観保全から電柱の数をできるだけ減らし、地下電源ケーブルの敷設という新しい試みもなされている。御影石で覆われた頑丈な地下溝に、電気ケーブルやガス管などが収容されて、これまた住宅街では初めての共同溝も実現している。建て替えのために宅地を掘ると、いまでもこの共同溝に使われた御影石材が出てくるという。電話の普及とともに、クラブハウス内へ電話交換台の設置が計画されたのも画期的だった。さらに、街中にいわゆる「ドブ板」と呼ばれる下水溝が存在しないのも、それまでの住宅地の景観とは異なるものだ。本格的な地下埋没型の下水管が敷設され、トイレはすべて水洗式を採用し、目白文化村から下水の異臭がすることはなかった。従来の住宅概念を止揚し、いまでは当たりまえとなった生活インフラの手厚い充実も、目白文化村の大きな特色のひとつといえる。

■写真:画面左手の下が、戦時中にもかかわらず陸軍軍楽隊チームと目白文化村住民チームとによる、ベースボール試合が行われた野球場跡。現在は、山手通りと十三間通りの地下にあたる。


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