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続・瑠璃山「殺人事件」。 [気になる下落合]

 前回、瑠璃山山麓で宅地造成をしていた開発業者が、パワーショベルの下に人骨を見つけ、殺人事件と勘違いして戸塚警察署へ通報してしまったClick!ことは書いた。実際は、目白・下落合横穴古墳の発見だったのだが、では発見当時の様子はどのようなものだったのだろうか?
 戦前まで、下落合一帯の道端や畑には、さまざまな時代の石器や土器が散乱していたという。1955年(昭和30)前後に始まった大規模な再開発により、下落合から上落合にかけての平地に存在した数多くの古墳が、調査を待たずにすべて潰された。危機感を抱いた新宿区教育委員会では、開発途中だった下落合4丁目(現・中落合/中井)の御霊神社から目白学園の高台にかけて、1955年3月に、かろうじて調査を行っている。調査では、縄文期から近世までの一貫した遺跡が確認され、下落合には有史以来、人が住みつづけていることが確認された。
 この目白学園の調査を最後に、新宿区では古代遺跡の調査を事実上放棄している。急速に都市化が進行し、もはや遺跡調査は不可能と判断されたのだ。ところが、1966年(昭和41)年7月15日、下落合4丁目(旧・下落合2丁目)の瑠璃山山麓から古墳が次々と発見されて、教育委員会や早稲田大学、東京慈恵医科大学など関連する研究者たちは色めきたった。瑠璃山山麓は、「下落合おとめ山邸宅分譲地」として日本中央地所(株)が開発しており、注意深いパワーショベルのオペーレターがいなければ発見されなかったかもしれない。横穴や人骨が出現して慌てた作業員が、一度はそれを「見なかったこと」にして再び埋めもどしてしまったが、殺人事件を疑って戸塚署へ通報したのが幸いした。警察では、出土した人骨を署に保管して鑑識作業を行った。
 その後、古墳と同時に大量の貝化石が発見され、国立科学博物館を巻き込んで大がかりな調査となる。貝化石は浅海性の種類ばかりで、石器時代には落合台地のすぐ下まで海岸線だったことが証明された。古墳は全部で4つ発見され、北側から順番に1号横穴古墳~4号横穴古墳と名づけられる。しかし、2号墳と4号墳はパワーショベルによってすでに破壊されており、2体分の人骨を見つけて作業員が驚いたのは2号墳だ。2号墳からはほかに、鉄製の大刀(直刀)が出土している。鉄大刀は、玄室の奥へ向けられて横たえられた2体のうち、左側の壮年男性と思われる遺骸の胸の部分に捧げられるように置かれていた。右側の小柄な遺骸は、性別はわからなかったが左側の遺骸の妻か、あるいは血縁の少女とみられている。
 1号墳も破壊されたが、かろうじて玄室の壁面が確認できた。もっとも完全なかたちで発掘されたのは、3号横穴古墳Click!だ。1号墳や2号墳がもっとも大きな横穴古墳で、3号墳は中規模だったようだ。(4号墳は破壊されて不明) 切道、羨道、玄門、玄室ともほぼ完全に残っていて、新宿歴史博物館では精細なレプリカを見ることができる。かろうじて泥化した人骨が確認されたが、副葬品は腐食しつくしたのか発見されていない。3号墳の主も、骨のやわらかい女性または若い男性だったのだろうか? 副葬品は、2号墳からの長さ79cmの鉄大刀が1振りと鍔(つば)、長さ不明の小ぶりな鉄刀1振りのみで、鉄製品の痕跡は残るものの、あとはすべて土に返ってしまったようだ。これら副葬品も、実物を新宿歴史博物館Click!で見ることができる。

■写真:瑠璃山の山頂から新宿方面を眺める。このすぐ崖下が、目白・下落合横穴古墳群だ。


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ChinchikoPapa

ごていねいに、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2011-06-28 13:27) 

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