古墳刀を研いでみる。 [気になる下落合]
古墳刀の地鉄(鋼の鍛え地肌)が見たくて、以前、研ぎに出したことがある。もちろん、包丁やハサミを手がける研屋さんではなく、世界的にみてももっとも高度な研磨技術を備えた日本刀の研師さんだ。かなりの錆び身でも、10種類以上もの砥石を駆使して磨く研師の手にかかれば、たいがいは元の輝きを取りもどす。しかも、包丁やハサミのような機械研磨はいっさい行わず、すべて地道な手作業だ。だから、とてつもない労力と時間がかかる。
わが家には、古墳刀が2振りある。(フツーの常識的な、正しい家庭にはあるはずがないものですが(^^;) ひと振りは、山梨県のとある古墳から出土したのを譲っていただいた、長さ(刃長)3尺4分(約92cm)の鉄剣つまり諸刃造(もろはづくり)の大剣で、おそらくは5~6世紀の作。もうひと振りは、都内某所の住宅街から出土し、そこのお宅から譲っていただいた長さ1尺9寸2分(約58cm)の切刃造(きりはづくり)の直刀だ。こちらは、形状や造りから推定すると、以前より紹介している目白・下落合古墳群から出土した古墳刀と、ほぼ同年代と思われる6~7世紀。体配(刀の形状)も、きわめて近似している。
古墳刀の保存状態は、鉄剣よりも鉄刀のほうが良好なケースが多い。理由は単純で、剣は刀身の両側に刃がついているため、重ね(刀身の厚さ)が薄い場合が多く腐食が早い。刀の場合は、片側のみに刃をつけているため反対側の棟(むね)*1の部分がたっぷりと厚く、1500年以上もの時間が経過しても、刀身の芯まで腐食せず鍛鉄が残っている場合が多いのだ。
苦労して研いでいただいた結果、見事な柾目(まさめ)鍛えの地肌が表れた。ヨーロッパに見られるような、単に鋼を圧延した単純な刀剣ではなく、かなり複雑な鍛錬法があみ出されていたのだ。つまり、後世の日本刀の時代よりもはるか以前、いにしえの古墳時代から、おそらく専門職である刀鍛冶が鋼(はがね)*2を何度も折り返し鍛錬して、刀を製造していたのがわかる。鍛錬法を細かく観察すると、鎌倉時代以降の複雑な縦横折り返し鍛錬に比べればかなり単純だが、それでもフイゴを使って火床の中で鋼を赤め、一方向へ入念かつていねいに折り返しているのがわかる。折り返し鍛えにより、まだ残っている不純物をたたき出し、最終的に炭素を均一に含んだ強靭な鋼へと純化させていく方法を、古代人は経験則で体得していたのだろう。
この鍛え技術の良し悪しが、刀の強度と斬れ味を決定するのだが、刃を焼くときの土取り*3まで行われていたかはわからない。研師さんは、日本刀の研磨と同様にいちおう刃取り(刃部の研磨)までしてくれたが、古墳時代の焼入れ法Click!の詳細まではわからなかった。ひょっとすると、刃の部分はとうに腐食するか、駈け出して(研ぎ減って)いたのかもしれない。
*1:刀の背面部分のこと。時代劇などで峰(みね)打ちなどと言われるが、刀の名称に峰という部位は存在しない。また、棟側へ打撃を与えることは、刀の造りや強度からいっても最大のタブーだ。
*2:刀の材料である鋼は、現在は玉鋼(たまはがね)と呼ばれるが、明治時代以降の新しい呼び方。作刀できる高純度の鋼で、貫通力の高い大砲の弾を造ったころからそう呼ばれるようになった。
*3:刀の形に整えられた鋼(素延べ)に、粘土を特定のかたちに塗布し、一気に赤めて冷却すると(焼入れ)、刃をつけることができる。塗布する粘土の模様や厚さによって、さまざまな刃文や地肌の景色が形成される。
おのさん、トラックバックをありがとうございます。(^^ 鋼の地鉄の色は、地域によって、つまり産する砂鉄の種類や卸し方によってまったく異なりますが、地肌や刃文の景色や美しさとともに、地鉄の色映えも見所のひとつです。尾道の地鉄は、ちょうど中庸の暗すぎず白けすぎずで、万人うけする出来栄えをしてますね。隣りの備中の地鉄は、鍛え方のせいかやや白けてみえます。
by ChinchikoPapa (2005-01-04 01:05)
こちらにもnice!をありがとうございます。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2009-09-22 00:02)
一輪挿しの「凛」、少し螺旋がかった独特なフォルムが美しいですね。
nice!をありがとうございました。>kuniさん
by ChinchikoPapa (2009-09-22 00:03)
こちらにも、nice!をありがとうございました。>さらまわしさん
by ChinchikoPapa (2014-09-04 18:29)