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会津八一の不運な引っ越し。 [気になる下落合]

 

 下落合に住んだ会津八一は、2回引っ越しをしている。最初に住みついて「秋艸堂(しゅうそうどう)」と命名したのは、西坂を上がりきったところを左折し、落合第一小学校手前の坂と霞坂とに挟まれた、坂の中途にある大きめの日本家屋だった。屋敷森に囲まれたこの家には、美術家で歌人、はたまた書道家で早大教授、そして坪内逍遥の愛弟子でもあった彼を慕って、さまざまな学術分野の人々が数多く参集した。1926年(大正15)まで、ここに住んでいたのが確認できる。
 会津八一が、なぜ目白文化村へ引っ越そうと考えたのかはわからない。自宅で研究会を開くのに、当時の屋敷が手狭だったとも思えない。関東大震災を経験して建物の老朽化が気になったのか、あるいは目の前の落合第一小学校の物音がイヤだったのか、1922年(大正11)に箱根土地によって第一文化村が売り出されると、しばらくしてから引っ越しをしている。これがのちに、取り返しのつかない不運な転居のはじまりだった。
のちに会津八一の手紙やハガキ類を調べたら、引っ越しはどうやら下落合1321番地への「転居通知」Click!のみしか見つからなかった。したがって、1935年(昭和10)前後の大規模な地番変更にからみ、引っ越しは1328番地が1321番地へと変更された直後、1935年(昭和10)10月の一度だけだった可能性が高いと思われる。
 西坂の下落合3丁目1296番地(現・中落合3丁目14)から最初に引っ越したのは、同じ3丁目1321番地、第一文化村の最南部のエリアだった。現在は、ちょうどスーパー「オリンピック」の駐車場がある前面、山手通りの下になっているあたりだ。そう、ここは昭和に入ってすぐに、改正道路(環状6号線)が通ることとなり、引っ越して5年とたたないうちに、今度は立ち退きを迫られることになった。膨大な蔵書や資料、美術品などを抱えての転居は容易でなかったに違いない。彼が何年に引っ越したのかはわからないが、1941年(昭和16)にはすでに工事中の改正道路は会津邸のあった一画を貫き、中井駅の手前まで拡幅が終わっている。
 次に移った先は下落合3丁目1328番地、第一文化村の中央部だ。ライト風建築で人目を惹いた、広大なK邸のすぐ東隣りだった。ここで彼は、1945年4月13日の空襲を迎えることになる。つづきは・・・
その後、第一文化村と第二文化村は4月13日夜半と、5月25日夜半の二度にわたる空襲により延焼していることが新たに判明Click!した。

「目白文化村」サイト Click!
■写真は、2回目の引越しで空襲に遭う旧・会津邸の現状。は最初に引っ越した会津邸あたりで行われていた、戦時中のラジオ体操。(1942年)


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ChinchikoPapa

昔の記事にまで、わざわざnice!をありがとうございました。>さらまわしさん
by ChinchikoPapa (2014-07-02 16:03) 

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