駒場の旧・前田侯爵邸を拝見する。(下落合みどりトラスト基金) [気になる下落合]
下落合のE邸は、旧・前田子爵邸を移築したものだと伝えられている。前田子爵は、加賀の前田本家から分家し、江戸期には上野(かずさ/群馬県)七日市に封じられた小大名だった。明治以降、前田分家は華族となり子爵を受領している。一方、前田本家のほうは侯爵となった。
ところが、この前田分家の藩主前田利昭の子供に前田茂という人がいた。この前田茂は1900年(明治33)、前田本家へ養子に入り「利為」と改名している。そして彼は、本家・前田侯爵家の第16代当主となったのだ。つまり、本来なら前田子爵家の彼が、前田侯爵家の跡取りとなり、本郷の赤門(旧・加賀藩上屋敷)の邸宅に住むこととなった。
●ポイント1:前田利為侯爵は、もともと前田子爵家の子息だった。
関東大震災のあと、東京帝国大学が拡張され、本郷の前田侯爵邸が“邪魔”になると、帝大側は前田利為侯爵に「駒場に環境がチョ~抜群な帝大敷地があるんだけどさ、本郷のおたくの敷地と等価交換してくれればうれしいんだけどな?」ともちかけた。前田侯爵は、なぜかすぐに「いいよ~」と答えて引っ越した。そして、大正末から昭和初期にかけて、駒場の森の中に前田邸(洋館/和館)が建設されている。その日本家屋は、昭和初期の建築であり、旧・前田子爵邸の移築であると伝えられているE邸よりは新しい。
●ポイント2:駒場の旧・前田侯爵邸は、下落合のE邸よりもあとに建築されている。
この前田利為侯爵は1942年(昭和17)、太平洋戦争が始まるとボルネオ守備軍司令官に任命されたが、同年9月に飛行機事故で亡くなっている。肩書きは、陸軍大将だった。おや? 「陸軍大将」は、下落合でも見たような・・・。そう、E邸の東隣り、七曲坂に沿ったところに大嶌久直陸軍大将(子爵)の邸宅があった。E邸の北半分はその子息か姻戚と思われる「久彦」の名前も見える。もちろん、大嶌子爵は昭和初期、前田侯爵は昭和17年と、陸軍大将になった時期はまったく違う。でも、同じ陸軍内の上級幹部同士だから、つきあいの濃淡はあるにせよ、つながりがあったとみるのが自然だろう。
●ポイント3:E邸の隣家・大嶌子爵と前田侯爵はともに陸軍で、最終の階級は大将だった。
なんとなく、ぼんやりとながら前田子爵家と前田侯爵家の関係、前田子爵邸を移築したと伝えられるE邸と隣家の大嶌子爵邸の関係、駒場に屋敷を建てた前田侯爵と下落合の大嶌子爵との陸軍を通じた関係、前田侯爵とは姻戚筋にあたる下落合の近衛家との関係、旧・前田子爵邸といわれるE邸よりは新しい建築の前田侯爵邸との関係・・・などなど、いろいろなことが頭の中をグルグルめぐっている。
ここは、駒場の前田侯爵邸を、実際に見てみなければ・・・ということで、さっそく出かけてきた。ひょっとしたら前田利為侯爵は、自身が育った出自の前田子爵邸をまねて、自宅を建設しているのではないか?・・・という想像も働いた。残念ながら2階を拝見することはできなかったが、1階の主な部屋は見てまわることができた。昔の日本家屋(特にお屋敷)は、みんな似ているように感じるのかもしれないが、デジャ・ビュ(既視感)にとらわれるのはわたしだけではないと思う。旧・前田侯爵邸写真レポートClick!としてご紹介する。
■写真:前田侯爵邸の外観(左)とクスノキの大木が繁る庭園(右)。いつかどこかで、見た・・・。
以前の記事にまで、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2011-12-13 10:36)