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箱根土地(株)建築部の仕事。 [気になる下落合]

 

 目白文化村の中に建てられた屋敷には、箱根土地へ建築まで依頼したものが何棟か存在している。箱根土地には建築部という部門があったらしいのだが、文化村の方々には「箱根土地の関連建設会社に建ててもらった」という記憶も残っている。当初は箱根土地の建築部だったものが、住宅建築ビジネスが軌道にのるとともに独立して、大正の末には箱根土地の子会社化していったのかもしれない。
 目白文化村における建築部の仕事は、第一文化村にあった箱根土地本社屋をはじめ、いまでいうカルチャーセンターのような役割をもったクラブハウス、すぐに壊されてしまいテニスコートとなってしまった柔道場・相撲場などがある。目白文化村を開発した1922年(大正11)前後に、同社の建築部は東京市内でもさまざまな仕事をしていた。その多くは、華族屋敷が切り売りされたことによるミニ宅地開発だったが、同時に「文化施設」の建設にも力を入れていたようだ。特に、現在の東急・渋谷文化村を予測させるような「渋谷キネマ」界隈の開発、現在の西武・豊島園のプロトタイプである「新宿園」などが有名だ。
 「渋谷キネマ」(のちにテアトル渋谷)は、1945年(昭和20)5月25日の空襲で館内が全焼するまで、渋谷を代表する大型映画館のひとつだった。(下写真) 鉄筋コンクリートではなく、バラック建築とのことだが、劇場前の幟竿の列が歌舞伎座のようで面白い。館内の垂れ幕も、なんとなく映画館というよりは劇場の趣きがあり、大正期にはその区別が限りなく曖昧だったことがわかる。
 

 「新宿園」のほうは、いまの豊島園と同じようなコンセプトで建てられたアミューズメント・パークともいうべき施設だった。「新宿園」は、現在のちょうどウェルネス東京(旧・東京厚生年金会館)の西側一帯、新宿5丁目界隈にあった。劇場やサーカス、庭園、遊園地・・・と、「新宿園」に家族で来れば1日遊ぶことができた。園内の「白鳥座」でアンナ・パヴロワの公演が行われたことは、いまでも語り草になっている。園内いずれの建物も、箱根土地の建築部が設計・建設している。でも、開園当初はともかく、入園料が高いためにだんだん人気がなくなり、1926年(大正15)に閉園している。閉園後は、一般の住宅地として再開発された。写真下が「孔雀座」、がアンナ・パヴロワが出演した「白鳥座」の内部。
この伝承には、どこかで大きな齟齬が生じていることが、その後の調べで判明した。1925年(大正14)に新宿園の白鳥座で踊ったのは、ロシア革命により日本へ亡命したエリアナ・パヴロワであり、1922年(大正11)来日のアンナ・パヴロワClick!ではない。近代建築分野の書籍に、アンナ・パヴロワとする記述が多いようだ。
 

 箱根土地(株)の建築部(関連建設会社)は、誰か強力なリーダーシップをとる、強い個性をもった建築家がいたわけではなく、そのときどきに流行のデザインをポジティブに取り入れて、当時の施工主が不満を感じないよう無難な建物を建てていったように思う。よくいえば、どのような建物ニーズにも対応できるフレキシビリティ、換言すればポリシー希薄で節操がないというところだろうか。ライト風建築が流行ればさっそく取り入れ、アール・ヌーボーがお望みならいかようにでも対応し、スパニッシュやモダンな近代主義が新しければさっそく試みる・・・というように、目白文化村とその周辺に建てられた施設やいくつかの住宅を見ても、特に箱根土地の建築部“らしさ”というものは感じられない。

■上写真は「新宿園」の入口、は目白文化村のクラブハウス。

「目白文化村」サイトClick!


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ChinchikoPapa

いつも、たくさんのnice!をありがとうございます。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2009-10-26 18:07) 

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