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あの人は帰っちゃこなかった。 [気になるエトセトラ]

 天明年間(1781年~)あるいは寛政元年(1789年)のある日、よく晴れた江戸湾を出航していった弁財船(べざいせん)は、二度と再び帰ってはこなかった。弁財船には、船頭(船長)の彦兵衛、親父(舵取り・航海士)の長兵衛、炊食(コック)の徳三郎、水主(かこ/船員)の荘吉・伸助・摠右衛門・長松の7名が乗り組んでいた。いまではめずらしい、回向院に残されている舟形の墓碑だ。
 江戸期を通じて、海上の物流(廻船)ルート網が発達するにつれ、年々、弁財船は大型化をしていった。五百石船よりは八百石船、千石船よりは千五百石船・・・というように、江戸が大江戸へと拡大するにつれて、商品の需要はうなぎのぼりとなり、諸国から運び入れる物資の量も激増していった。ところが、船が大きくなるにつれ、乗組員の数も比例して増えていったのかというと、実は逆だったのだ。船が大きくなっても、乗組員はそれほど増えなかった。荷主は、できるだけ船乗りの人件費を減らし、一度に大量の物資を江戸へ廻送しようと、操船の人員を削りに削っていった。巨大な千石を超える船でも、乗組員たちは十名に満たないこともまれではなかった。乗組員が7名ということは、おそらく八百石~千石船ぐらいだろうか?
 乗組員が少なくなれば、それだけ交代で睡眠をとることもできなくなる。もし、天候の悪化や風・潮流を読みちがえて漂流することにでもなれば、たちまち力つきて遭難してしまう。疲労した見張りが岩礁を見落とし、座礁してたちまち沈没・・・なんてこともあっただろう。この弁財船は、大伝馬町の木綿太物問屋の荷を運んでいたといわれるが、大量の積荷とともに太平洋のどこかへ沈んでしまった。大川の河口か、あるいは品川沖か、船頭の彦兵衛をはじめ7人の乗りくんだ弁財船の帆が、きょうは見えるか明日は見えるかと、渚に立って待ちつづけていた人たちがいたに違いない。でも、二度と江戸湾には帰っちゃこなかったのだ。
 

 本所の回向院は、不幸な死に方をした人々が弔われている、江戸(東京)でも特異な寺だ。そもそもが、振袖火事(明暦大火/1657年)の10万を超える膨大な犠牲者を、幕府がここに集めて埋葬したことに始まる。以降、地震や火事、水難、水子、刑死人、行倒れ(無縁仏)・・・、明治以降では関東大震災など、弔われている人々の多くは、みな不幸を背負って不慮の死をとげている。観光バスで訪れる人たちは、鼠小僧次郎吉や山東京伝、吉田松陰、橋本佐内、高橋お伝などの墓は見てまわるが、なかなか一般の墓碑には足を止めない。
 そんな墓石をひとつひとつ眺めていくと、そこで繰りひろげられたさまざまな人生や、悲喜こもごもの想いが伝わってきて、なかなか立ち去りがたくなってしまうのだ。

■写真上:弁財船をかたどった、船頭・彦兵衛以下7名の墓碑。
■写真下は、品川沖に停泊する大型の弁財船。広重『名所江戸百景』第82景の「月の岬」(部分)。は、江戸期に造られた犬の墓。「は組」にいた新吉という町火消しが建立したもので、唐犬「八」は火事現場で活躍した犬だろうか?

この3名の墓域は両国ではなく、小塚原回向院のほうでした。訂正します。


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ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2011-06-04 17:06) 

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