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文化村ベースボール大会・1943年 [気になる下落合]

 日本の敗色が濃くなってきた1943年(昭和18)、敵性スポーツである野球の用語がすべて日本語に置き換えられたのをはじめ、同年4月には東京六大学野球連盟の解散、10月16日には出陣学徒壮行早慶戦、いわゆる「最後の早慶戦」が早大の戸塚球場(安部球場)で開催された。同日は隅田川で、「最後の早慶レガッタ」も催されている。
 文科系学生への徴兵猶予が勅令(天皇命令)によって停止され、「最後の早慶戦」の直後、10月21日には神宮外苑の陸上競技場において、77校の文科系学生による「出陣学徒壮行会」が開かれている。「小雨にけぶる神宮外苑・・・ついに、我らは起ったのである!」という、アナウンサーと「出陣」学生の主体が容易に一体化して流れる、気味(きび)の悪い実況によるニュース映画で記憶されている方もあるだろう。(アナはNHKの志村正順だったか?) 以前、韓国の「バカ映画」Click!について書いたけれど、自由にモノを言えず表現することもできない状況下で、まるで北朝鮮の「将軍様閲兵式」のように足を高々と上げて“分列行進”をする学生たちの姿を見て、東條英樹が笑みを浮かべているシーンは、何度見てもおぞましい。理科系学生だった親父は、このとき雨に濡れながらスタンドに“動員”されていた。未来の担い手を戦場へ送る、この悲壮な光景を目の当たりにして、「こりゃ間違いなく負けらぁ」と確信したようだ。
 さて、余談はともかく、戸塚球場(安部球場)で「最後の早慶戦」が開かれる数週間前、早稲田大学と慶應大学のバッテリーは、なぜか目白文化村近くの立教大学長崎グラウンドにいた。戦時下の文化村で結成されていた、青少年組織の「若人会」の野球チームに招かれたのだ。「若人会」は、いちおう戦時下の組織という名目になっていて、防空壕堀りや消防訓練などを行ってはいたが、文化村におけるさまざまなサークル活動を継続しており、「戦時色」よりは「文化色」の強い団体だったようだ。当然、男女一緒の活動だったので、文化村の軍人家庭からは苦情が出た・・・という逸話も残っている。でも、「若人会」ではおかまいなしに、さまざまなイベントを企画していたらしい。
 中でも、音楽サークルを通じて陸軍軍楽隊との交流があり、ベースボールファンの多い双方で交流試合をすることになった。目白文化村チームには、本格的な野球経験者がいなかったらしく、急遽、解散してしまった六大学野球の早慶チーム・バッテリーを招いて、戦力を補強することになったというわけだ。このとき招かれた早慶のバッテリーが、いったい誰だったのかは記録に残っていないのでわからない。ひょっとすると、このあとの学徒出陣で戦死されているのかもしれない。
 

 当初は、「最後の早慶戦」と同様に早稲田の戸塚球場で試合を行うはずだったが、当日は雨で順延。1943年(昭和18)9月14日、目白文化村に近い立教大学の長崎グラウンドで試合が行われた。結果は、陸軍軍楽隊チームの圧勝だったようだ。目白文化村チームが、早慶のバッテリーまで連れてきてなぜ負けたのか、おそらく守備がメチャクチャだったのではないかと想像している。早稲田で「最後の早慶戦」が開かれる32日前、神宮外苑で「学徒出陣」壮行会が挙行される、わずか37日前の出来事だった。

「目白文化村」サイトClick!

■写真上:第二文化村の近くにあった“簡易野球場”。目白文化村では、テニスとともに野球がかなり盛んだったようだ。(1947年空中写真)
■写真下は昭和18年10月16日に、早大戸塚球場で行われた「最後の早慶戦」。試合は10-1と早稲田が圧勝したが、慶應応援団が「都の西北」を、早稲田の応援団が「若き血」を唄って応援をした。は、同年10月21日に神宮外苑の陸上競技場で行われた「出陣学徒壮行会」。


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