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小日向の子供幽霊。 [気になる神田川]

 これは伝説や噂話ではない、限りなく事実に近い話として記録されたエピソードだ。江戸時代の天明期から文化期にかけて、根岸鎮衛(やすもり/1737~1815)という人がいた。わずか150俵扶持の御家人の三男に生まれ、同じクラスの御家人の家庭へ養子にいったのだが、性格が洒脱かつ真面目で飾らないせいか、佐渡奉行から勘定奉行を務め、ついには南町奉行までも歴任しためずらしい経歴の持ち主だ。下級の御家人が江戸町奉行になるなど、常識では考えられないことで、しかも元もとは町人の出で、貧乏御家人の株を買って武士になったという伝承さえある。
 根岸鎮衛が勤務した時代は、賄賂がはびこったといわれる田沼時代から、田沼一族を粛清して幕政の一大改革を行った松平定信の時代、さらにあまりの綱紀粛正と緊縮財政から高札汚しに「白川の清き流れに魚住まず 濁れる田沼今は恋しき」と、江戸町人からも総スカンを食らって白河守が失脚したあとあとまで、つまり激動の政治的な状況の中で、彼は順調に昇進していったことになる。それだけ、抜群に仕事ができたせいもあるのだろうが、もともと奥さん自らが豆腐を買いにいくような、町場の貧しい御家人の出なので、周囲の旗本人脈や派閥のしがらみにとらわれなかったのも幸いしたのではなかろうか。
 江戸町奉行というと、「南」の大岡忠相や「北・南」の遠山景元が芝居や講談で取り上げられることが多く、あまりにも有名なのだが、思いのほか実際のエピソードや史実は残されていない。語られる内容は、たいがいあとからの付会か、講談や芝居などの創作なのだ。それに比べ、事実の記録としてのエピソードの多さ、史実としての確かさでは、根岸鎮衛がピカイチの存在だ。それは、彼自身が伝聞日記ともいうべき『耳嚢』(みみぶくろ)全十巻を、仕事の合間に書きつづけていたせいもある。また、大岡や遠山などの「上流階級」とは異なり、元来が御家人の出自なので気さくな人柄が好まれ、数多くの記録が町場で好意的に残されたからだろう。
 ・・・さて、うちの墓は深川のほかに、山手の小日向(現在は「こひなた」と読まれているが江戸期は「こびなた」)にもある。下町育ちの中には、ないものに惹かれて山手へあこがれる人もいたらしく(わたしもそうなのだが)、バッケ(目白崖線)南側の陽当たりのいい小日向に葬ってくれと遺言した。この時期、墓参りは2ヶ所を廻らなければならず、面倒なことこのうえないのだが・・・。江戸期の小日向は、典型的な武家屋敷街で、馬術教練の高田馬場と並んで小日向馬場があったところだ。ここに、昔から伝わる有名な子供の幽霊話がある。それは、根岸鎮衛の友人である栗原という人が経験し、『耳嚢』巻之五に収録されている実話だ。

 根岸の知人でもある、この栗原という人物は小日向に住んでいて、近くの旗本屋敷へ親しく出入りしていた。そして、その家の5歳になる息子と特に仲よくなった。訪ねるたびにお土産を持っていくなどして、男の子もこの栗原という“おじさん”に、家族同然よくなついたようだ。無沙汰がつづいたある日、旗本の屋敷から使いが来て、「今晩はどうしても来ていただくよう」という主人の伝言を告げた。さっそく訪ねていき、玄関から勝手のほうへ廊下を歩いていくと、例の男の子が出てきて栗原の袖口を引いた。そのまま引かれて案内されていくと、屏風をめぐらした、まるで病人でもいそうな部屋へと連れて行かれる。すると、旗本の主人が沈痛な面持ちであらわれて、「かねてからかわいがっていただいていた息子が、疱瘡で死にました」と告げた。栗原は冷水を浴びたようになり、根岸鎮衛の屋敷へ来て「驚きしのみにも非らず、こわげ立ちし(驚いたのなんの、ゾクッと鳥肌が立ちました)」・・・と話している。
 根岸鎮衛という人は、沈着冷静な人だったようで、この話も「幽霊なきとも難申事」というタイトルで記している。つまり、幽霊がほんとうにいるかどうかわからないけれど、親しくて信頼のおける友人(栗原)から、じかにこういう話を聞くと、いないとも言い切れないんじゃなかろうかなぁ・・・というニュアンスを感じ取れる。『耳嚢』には怪談がいくつか収録されていて、それらの多くは又聞き話なのだが、「幽霊なきとも難申事」は直接幽霊に出会った人物からの、しかも知人からの直接取材なので、筆先のリアリティが格段に高い。
 小日向のバッケは、いまも寺社が軒を連ねて斜面には墓地も多い。宅地開発すれば、南斜面でとてもよい住環境となりそうなのだが、坂下に神田上水の大堰手前から分岐した水道が開渠のまま後楽園まで通っていたせいか、江戸の昔から斜面には住宅が建て込まず、独特な坂町を形成している。水道へ生活排水が混じらぬよう、幕府の意向が町づくりに強く反映したのかもしれない。また、ここには悪名高い切支丹牢屋敷もあった。夜になると、現在でも灯りが少なく真っ暗になる小日向は、いまだになにかが出そうな気配を漂わせている。子供の幽霊が、どこからか袖を引いたりするのだろうか。
 余談だが、この逸話を「巻之三」と誤って記載している本が、最近やたらと目につく。誰かの本の孫引きをしているうちに、どこかで誰かが間違えて、それがそのまま広く流布してしまったのかもしれない。手近にある1冊、たとえば志村有弘・編訳『新編・百物語』(河出文庫)にも、「巻之三」と書かれている。(96ページ) 全十巻を忠実に収録した、東洋文庫や岩波文庫の『耳嚢』を参照すればすぐにもわかるのだが、この話は「巻之五」に収められている。

■写真上:椿山のならび、小日向の目白崖線(バッケ)上からの眺め。ほんとうに寺や墓地が多い。
■写真下:江戸期は、神田上水が開渠のまま流れていた崖線下の道路。


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ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2009-07-14 16:03) 

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