二柱の御霊神の怨霊とは? [気になる下落合]
第七夜は、いつも不思議に思っていること。「御霊神」が奉られる御霊神社とは、いったいなにか?・・・ということだ。奉神が曖昧で、具体的にどのような性格の結界なのか特定できないのだ。そのまま意味を解釈すれば、「御魂を神として奉る社(やしろ)」ということで、たいへん抽象的な表現になってしまう。明神なら将門など、天神なら菅公というように、具体的な対象神との結びつきが感じられない。そう、この「御霊」という言葉が、実はクセモノなのだ。
民俗学者のフィールドワークを引用するまでもなく、日本各地にある御霊神社は、その地域特有の怨霊を怖れて呪い(祝い)、封じた聖域(地主神化)であることがわかる。よく、「○○天皇」や「○○皇后」などが奉られていることが多々見られるが、あとからの追祀や付会であることが多い。社自体の創建は不明なほど古いが、後代に上記のような皇族がなんらかのエピソードとともに追祀された・・・というケースだ。つまり、「御霊」とは、その地域になにか謂れのある怨霊そのものであり、その祟りや呪いを鎮め、封じこめるために建立された社で、元神の具体的な姿が時代経過とともに忘れ去られてしまった結界域ということになる。そして、落合丘陵の西側には、ふたつの有名な御霊神社が存在している。中井御霊神社と葛ヶ谷御霊神社の二社だ。この区域ではいったいなにが、それほどの「祟り」をもたらしたのだろう。
はるか昔、御霊神を奉る結界づくりブームというのがあったようだ。なにか災いが起きると、その地域で怨みを残して死んだ者の怨霊を奉れば、逆に怨霊たちがその土地を鎮めて治める守護神となってくれる・・・という、まことに生者には都合のよい考え方だ。形骸化したとはいえ、家を新築するときに神主を呼んで行う地鎮祭などに、その今日的な面影を見ることができる。基本的には、明神や天神を奉る発想と同じなのだが、異なるのはその土地で起きたなんらかの事件により、怨みの残る死者を奉った、非常にローカルかつ具体的な地縛霊的鎮守の「御霊神」であるという点だ。落合丘陵のバッケ上で、しかもこれほど近接して、ふたつの御霊神社が存在するのはどうしたことだろう? 伝承こそ絶えてしまったけれど、なんらかの具体的な事件があり、その死者による祟りや呪いの災いをかわすため、立てつづけにふたつの御霊神の社が造営されたのだろうか。
それには、今日に伝わる“根拠”とでもいうべき祭事が、両社ともに残っている。おそらく、江戸期以前から延々とつづく「おびしゃ(備射)祭り」の存在だ。「おびしゃ」とは「おぶしゃ」、すなわち「お歩射」が転訛したというのが定説だ。「歩射」に対する弓技が、高田馬場の流鏑馬などで有名な「騎射」となる。だが「おぶ(び)しゃ」にはもうひとつ、物の怪を払い怨霊鎮めの効果があると古くから伝えられてきた。転じて、正月の清めや五穀豊穣の祈願に結びつけられたりもする。いまでも「破魔矢」は、邪気払いのお守りとして全国的に有名だ。
現在では、中井や西落合の丘陵地帯は、とても明るい住宅街に変貌しているが、その昔、これほど近接して御霊神社を併設しなければならなかった事由とは、いったいなんだったのだろうか? わたしには、一帯に天候不順や凶作がつづいたから、御霊神社を複数建立して豊穣を祈願した・・・というような、しごく単純で、まるで江戸期の町内稲荷の勧請のようなお手軽発想の縁起には、社起源の古さからどうしても思えないのだ。1,000年単位の時間経過とともに、いにしえの怨霊の記録が失われてしまったものか・・・。
両社とも、稲荷や出雲神を摂社とする聖域となっているが、夏でもひんやりと霊気に包まれた境内には、いったいなんの怨霊が封じこめられているのだろう。
■写真上:左は中井御霊神社、右は葛ヶ谷御霊神社。鳥居のかたちが、中井が神明鳥居、葛ヶ谷が明神鳥居なのも気になるところ。
■写真下:葛ヶ谷御霊神社の「おびしゃ祭り」。
こちらにもnice!をありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
by ChinchikoPapa (2009-03-13 12:03)