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怨みは深し彰義隊。 [気になるエトセトラ]

 

 第八夜は、ちょうどいま「朝日新聞」の夕刊で吉村昭が小説を連載中の「彰義隊」がテーマ。上野戦争にまつわる上野や下谷、谷中界隈も、江戸東京では怪談や妖怪のメッカだ。もちろん、怨みを残して死んだ彰義隊とその家族の幽霊話が多いが、上野山を少し離れた下谷広小路から御徒町あたりにかけても、さまざまな幽霊話が囁かれている。その中でも比較的新しく、当時の新聞にも掲載された怪談を取り上げてみる。
 1865年(慶応4)5月15日、早朝から雨にけぶる寛永寺境内で繰り広げられた激戦は、立てこもる彰義隊と上野山を取り囲んだ薩長軍との間で丸1日つづき、両軍合わせて300名以上の戦死者を出した。いわゆる、戊辰の上野戦争だ。彰義隊に参加した人々には、幕府の旗本や御家人をはじめ、名主、町火消し、侠客などの町人たちも数多く混じっていた。当人たちばかりでなく、家族連れで参加する者も少なくなかったため、家族ぐるみで殺された例も多い。「賊軍」の汚名を着せられ、一家全滅した人たちの怨みは相当に深いだろう。
 薩長軍の包囲をかいくぐって、上野山をうまく脱出できた人々も少なからずいた。包囲が手薄な根岸方面へと脱出した人たちも多く、また上野山をまわり込んで下谷から御徒町の街中へと紛れ込んだ人々もいたようだ。反対に、薩長軍の攻撃や放火で炎上する伽藍を消火するために、上野山へ駆けつけた町火消したちもいた。薩長軍とにらみ合ったようだが、幕末の混乱期でも江戸の町火消しが機能していたのはまさに驚きだ。彰義隊とその家族たち200名を超える遺体は、薩長軍が埋葬許可を出さず、そのまま上野山に放置され、見せしめのために晒された。この事件以降、明治政府は江戸東京の市井からの協力を得られず(つまり江戸東京市民から総スカンを食らって)、やむなく街中に顔がきく旧幕臣たちを新政府へと登用し、市井との仲介役を任せざるをえなくなっていく。
 明治以降、江戸東京っ子のまるでフリーメイソンのような、目に見えない“組織”や“仲間”による、陰になり日になりの「薩長排斥」の動きは戦前までつづき、期せずして敗戦による陸海軍(最後に残った長州閥と薩摩閥)の解体により80年ぶりに「成功」したが、その代々つづく怒りのきっかけとなったのは、この彰義隊をめぐる上野戦争だ。戦後(1945年以降)も、「彰義隊の墓に尻を向けてる西郷像は、無礼だから溶かしっちまえ」、「いや、まがりなりにも高村光雲の作だから、鹿児島に高く売っちまえ」・・・というような声はあとをたたず、そこかしこの集まりで耳にする。日本橋上の高速道路や神田明神の将門神、大川の花火大会もそうだが、この種の運動に江戸っ子は案外「気が長い」から、これからまた80年たたずとも実現しているかもしれない。
 1968年(昭和43)春、下谷広小路(現・上野広小路筋)のJR御徒町駅近くに、NTT(当時は電信電話公社)がビル建設を計画した。現在のNTT上野ビルは、1975年(昭和50)5月に完成している。でも、このビル、完成するまでがタイヘンだったのだ。1968年当時、周辺の民家や商店をつぶして基礎工事にかかったところ、敷地の南西部から人骨や刀の鍔が出土した。これだけなら、東京の地下は遺跡だらけなので珍しくもないが、それとともに工事関係者に事故が立てつづけに起きはじめたのだ。幸い死者は出なかったものの、重軽傷者は10名を超えたといわれている。

 敷地内で宿直する建設業者の社員には、夜間に馬のひづめの音を聞いたり、女性のすすり泣く声を聞いたという者があとをたたなかった。また、月代(さかやき)あたりから血を流した武家が、「無念なり!」と言いながら夢枕に立つなど、工事関係者ばかりでなく電電公社の社員にまで、奇怪なうわさが拡がっていく。状況があまりに深刻なので、電電公社(当時)は工事をストップして、原因を調査しはじめた。すると、上野山を脱出した彰義隊の生き残りが、このあたりの屋敷で薩長軍に包囲されて焼き殺されていたことが、上野寛永寺に保存された過去帖からわかってきた。上野山から辛くも逃げのびたが、このあたりの屋敷で追い詰められて殺されたのは、旗本といわれる藤田重之丞という人だった。新聞ダネになったのも、このころのことだ。
 しかも、殺されたのは藤田重之丞ばかりでなく、その妻や家人、腰元、はては馬までが皆殺しになっていることが判明した。上野山の戦争では、家内全員を引き連れて立てこもっていたようだ。屋敷を包囲した薩長軍は、中へ斬りこむことなく、周囲から火を放って丸ごと焼き殺したらしい。過去帖によれば、この場所に藤田重之丞の屋敷があったとされているようだが、幕末の切絵図(尾張屋/近江屋とも)を確認しても、「藤田」姓の旗本屋敷は存在していない。上野山を脱出した藤田家一族は、途中で見つかり家族連れのため身軽に逃げることもできず、このあたりの空き屋敷へと入って、立てこもったのではなかろうか? 電電公社(NTT)では、改めて藤田家の法要を行い、供養塔を建立して追悼したところ、妙な現象や事故がピタリとやんだそうだ。
 「藤田家諸霊供養塔」は、いまでもNTT上野ビルの屋上にあって、毎年ていねいな法要がいとなまれている。碑の裏面には、「藤田重之丞、藤田ユキ、家来各位、乗馬幽魂、慶応戊辰(4年)5月17日 彰義隊に参加し此処に歿す」と彫られ、七五調の哀切な詩が手向けられている。
  江戸の名残りのはなのいろ 散りにしゆくへはわからねど
  恩顧に殉せしもののふの 跡やゆかしととむらはん

■写真は、JR御徒町駅の脇にあるNTT上野ビル。大容量光ファイバー回線直結のインテリジェントビルだが、敷地には忘れられそうな怪談が眠っている。は、ビル屋上へと移された供養塔。山手線の線路をはさみ、すぐ向こうには土方歳三が丁稚奉公していた松坂屋(デパート)が見える。
■図版:幕末(1862年/文久2)に作成された尾張屋清七版切絵図の「東都下谷絵図」。ちょうど現在のJR御徒町駅あたりだが、「中田」「吉田」「前田」「菰田」「山田」などの姓は見えるが、「藤田」姓の屋敷は見あたらない。


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