「白木屋」は惨事を繰り返すのか? [気になるエトセトラ]
地震だらけの江戸東京。元禄の江戸大地震(1703年/元禄16)から安政東海大地震(1854年/安政元)、翌年の安政江戸大地震(1855年/安政2)、そして関東大震災(1923年/大正12)まで、東京には飛びとびにしか大地震が来なかったような印象がある。昔、69年周期なんてことも囁かれていた。でも、安政大地震と関東大震災との間隔は確かに68+1年だけれど、このふたつの震源は直下型(活断層)と海底プレート型(相模湾プレート)で異なり、性格がまったく別なことがわかってきた。現実にはいつ大地震が起きても、なんら不思議でない状況がつづいていることになる。これら地震の巣がどう関連しながら、あるいは個別に活動しているかまでは、残念ながらよくわかっていないらしい。
実は明治期にも、マグニチュード7.0を超えたとみられる大地震が東京で発生しているのだが、あまりというか、ほとんど知られていない。1894年(明治27)6月20日午後2時4分に死者31名、重軽傷者多数を出す「明治東京地震」は起きている。関東大震災とは異なり、昼食が済んだあとだったから火災がほとんど発生せず、奇跡的に最小限の被害で済んだのだろう。また、日清戦争直前の世相も手伝って、大地震の記憶はすぐに「忘れ」去られた。震源地は東京東部、荒川から江戸川あたりの直下型活断層地震だったようだ。関東大震災の、わずか29年前のこと。
東京湾に津波は来ない・・・なんてことも、少し前までまことしやかに流布されていた。どう見ても危険だと思われる、地盤がメチャクチャゆるい埋立地の天王洲や台場、晴海などに、次々と大きなビルが建てられている。江戸期の270年間には、津波が何度も江戸湾岸を襲っていたのは、ほんの少し地元の歴史をひもとけばすぐにもわかることだ。当時は水門や防波堤がなかったため、津波は大川(隅田川)や神田川をさかのぼり、思いもよらない地域で被害を出している。
地震ではないのだが、1932年(昭和7)12月16日、クリスマスセールのまっ最中だった日本橋白木屋デパートメント(のちの東急百貨店)で火災が発生し、14名の死者と多数の負傷者を出す大惨事となった。日本初の高層建築火災として知られているが、当時、デパートの女性従業員は和服姿で下着をつけておらず、裾が乱れるのを気にして救助ロープを降りれずにためらっているうち、大量の死傷者を出したといわれている。この火災以来、東京では女性用の下着が定着したという伝説があるが、昭和初期、洋装の急速な浸透期とシンクロしているので事実かどうかはわからない。白木屋デパートが戦後、東急百貨店日本橋店と名前を変更(1967年)しても、親たちの世代は「あの白木屋」と呼びつづけていた。それほど、日本で初めての高層ビル火災が、強く印象に残ったのだろう。
東急百貨店もつぶれて、昨年(2004年)には「コレド日本橋」がオープンした。英語の「CORE(中核)」と「EDO(江戸)」とをかけた合成語とのこと。なんとも洒落た名前の、あまり日本橋には似合いそうもない高層ビルなのだが、最先端のビルらしくきっと防火対策は万全なのだろう。風をはらんだ、江戸湾の弁財船(べざいせん)をイメージしたらしいデザインも美しい。
でも、この外観はいったいなんなのだ? 外国人が設計したそうだが、大地震が起きたとき、この下の半径50m以内は絶対に歩いていたくない。写真にモアレが発生するほどの、凝りに凝った各階全面ガラスの壁面。ガラス片が驟雨のように降りそそぎ、白木屋の死者14名どころではないんじゃなかろうか。「あの白木屋」ならぬ、「あのコレド」という言葉が語り継がれることのないよう、ただ祈るばかりだ。
■写真:上は「COREDO日本橋」、下は1932年(昭和7)の白木屋火事。
ずいぶん昔の記事へ、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2011-03-11 20:38)