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下落合は巨大なミステリーサークルだらけ。(7) [気になる神田川]

 大名屋敷の回遊式庭園に築かれた山が、もともとは古墳の築山だった可能性が高いというテーマを、これまでの記事に何度か書いた。神田川沿い、旧徳川清水家の下屋敷だった甘泉園Click!に見える大きなサークル、尾張徳川家下屋敷の庭園にあった「箱根山」Click!と、そのベースとなった2つの築山らしき存在などについて書いてきた。ただし、前回書いた目白崖線に位置する肥後藩下屋敷(新江戸川公園)に面した「鶴」と「亀」は、塚ではなく大松だったことが小江戸っ子さんにお教えいただいて判明している。大名屋敷の築山が実は古墳だった・・・というような事例が、伝承や状況証拠だけではなく、そのような事実をはっきりと裏付ける遺跡はあるだろうか? 
 港区三田の慶応大学の近く、聖坂と呼ばれる坂道の途中に、済海寺というお寺がある。池波正太郎の小説を読んでる方なら、「鬼平」に何度か登場するおなじみの寺かもしれない。この寺の南隣りは江戸期、上野沼田藩(群馬県)三万五千石の土岐美濃守の下屋敷だったところだ。大名屋敷だから当然、庭園造りが行われている。その際、池とともに鶴山と亀山が設けられた。でも、この山は土を運んで新たに築いたものではなく、もともと屋敷の敷地内にあった小ぶりの古墳を造園時に利用したものだ。直径30m前後の円墳を、そのまま庭の景色として取り入れてしまったのだ。亀塚古墳と名づけられたこの円墳は、いまでも下屋敷跡地に設けられた亀塚公園内に、ほぼそのままのかたちで現存している。

 海に面した丘陵地帯の多い芝から田町、品川あたりにかけては、多摩川や神田川の沿岸と同様、東京における古墳の密集地帯だった。江戸時代、これら無数の古墳群をつぶして開墾したり宅地化していった様子が、出土物の図絵とともに記録されている。あまりに巨大な古墳、たとえば東京タワーの直近にある前方後円墳の芝丸山古墳Click!などは、手がつけられずにそのまま現在まで残ることとなった。三田の亀塚古墳も、偶然に大名屋敷の敷地内にあったことが幸いし、開発されることなくほとんどそのままの姿をとどめている。

 このように古墳の墳丘が、実際に大名屋敷の造園へ活かされている具体的な事例を見ると、同じ江戸期、神田川沿いに点在していた大名屋敷(多くは下屋敷)の庭園跡が、にわかに気になってくる。いままで、空中写真にサークル状のかたちが見えている、徳川清水家下屋敷(甘泉園公園)、尾張徳川家下屋敷(戸山公園)、伊予松山藩松平家下屋敷(大隈庭園)などはもちろん、さらに神田川を下落合へとさかのぼって、酒井家下屋敷(下落合2丁目界隈)、周防岩国藩古川家下屋敷(落合下水処理場の対岸)、また「百八塚」Click!のテーマを前提に寺社の境内まで含めると、気になるポイントが下落合から上落合にかけて無数に存在している。
 次回は、下落合近辺へともどり、古墳として認定されている元・月見岡八幡社の境内(八幡公園)にあった円墳跡や、「大塚」の地名が残る上落合周辺を歩いてみたい。空中写真ではもっともサークルの密度が濃く、「百八塚」伝説が大小無数に存在した墳丘の伝承だとすれば、遺跡が頻繁に見つかる上落合界隈は、文字どおり神田川古墳群の“メッカ”ということになるからだ。

■写真上:三田の聖坂沿い、亀塚公園内にいまも崩されずに残る亀塚古墳。
■写真下:手前のすべり台と比較すると、古墳の大きさがわかる。墳丘上には、沼田藩土岐家下屋敷の庭園を記念する「亀山碑」が残されている。「鶴山」は崩されてしまったようで、残念ながら現存していない。こちらも「亀山」と同様に古墳だった可能性がある。


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ディスクジョッキー

いつも、楽しませて頂いています。
実は、今日20日からしばらくの間
パソコンを修理出します。
また、直ったら訪問します。
by ディスクジョッキー (2005-10-20 07:29) 

ChinchikoPapa

ディスクジョッキーさん、毎日拝見しています。中学時代に、そういえばこんな曲も聴いたあんな曲も聴いてた・・・と、思い出すことしきりです。書かれる曲目には、「そういえば・・・」と思い当たることも多々あり、きっと音を聴けば忘れていた情景や当時の想いがよみがえるのでしょうね。
by ChinchikoPapa (2005-10-20 11:13) 

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