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長崎にもある双子の女体宮。 [気になるエトセトラ]

 西武池袋線の椎名町近くに、「長崎神社」がある。この社も、1874年(明治7)に明治政府の教部省によって、須佐之男命(スサノオノミコト)が押しつけられて合祀され、あろうことか社(やしろ)の名前までが改称させられてしまった。それまでは、この社の古来の名称は「氷川明神」、お隣りの金剛院と習合していた江戸期には「女体宮」と呼ばれて、金剛院の北西、いまの山手通りの下あたりに位置していた。
 そうなのだ、下落合の氷川明神女体宮とまったく同じ、櫛稲田姫命のみ一柱を奉った社が、旧・長崎(現・椎名町)にもうひとつ存在していた。このふたつの社は、まるで双子のように下落合のバッケ下と落合丘陵上に位置していたことになる。長崎の氷川明神女体宮は下落合の氷川社と同様、創建年代がわからないほど古い。おそらく、古墳時代にまでさかのぼれる、原日本の聖域ではないかと思われる。小さいながらも氏子は12,000人もいて、江戸の享保期には「十羅利女社」と呼ばれ、天明期からは金剛院別当となっていた。
 下落合あるいは高田の氷川明神社の南には、神田川(古代には平川=ピラ<崖>川)が流れている。だが、椎名町駅の周辺には川は見られない。出雲の荒神谷にある斐川の聖域と同様、氷川社の近くには必ず川が流れていなければならない。・・・ということでたどってみると、椎名町駅の南側に川が流れていたことがわかった。江戸期には千川分水と呼ばれ、通称・谷端川として親しまれていたが、洪水を繰り返すので戦後に暗渠化されてしまった。もともと谷に流れていた川を利用し、江戸期には上水道として掘削・整備されたもののようだ。この川は、椎名町駅のすぐ西側で西武池袋線の線路を横切るが、駅の東側、道和中学のあるあたりでもう一度線路を横切る。つまり、このあたりではU字型の流れをしていて、その中に氷川明神女体宮が位置していることになる。

 長崎神社は、わたしが学生時代からお馴染みの社で、山手通りを挟んで西池袋第二公園とともに、周辺散歩の休憩ポイントとなっていた。この社殿は、他にあまり見られない面白い構造をしている。通常、社は拝殿のうしろに本殿へと向かう釣殿か、少し大きな社になると祭文殿を経て本殿があるのだが(下左図参照)、長崎神社は拝殿がスッポリと、ほとんど本殿を覆ってしまうような造りをしている。つまり、拝殿が本殿へとのしかかるようなかたち、親亀の背中に小亀が斜めに載っているような趣向なのだ。そののしかかられた本殿は、拝殿横の大きく開いた縁の下から覗くと、かいま見ることができる。
 
 祭りのときには、昔から夜店がたくさん出るのでも有名だった。土地のお年寄りに話をうかがうと、下町と同様に祭りのあとの「吹き矢」集めが、子供たちの間で流行ったようだ。夜店の吹き矢売りは、どのぐらい遠くまで飛ぶかを集まった子供たちに見せるため、夜空へ向けて吹き矢をいくつも放ってみせる。翌朝、それをわれ先に拾い集める・・・という遊びだ。長崎神社は、「三匹獅子舞祭り」で有名だが、最近は奉納相撲大会も行われているらしい。

■写真上:本殿は、拝殿横の縁の下からかいま見ることができる。
■写真中:昭和初期の長崎神社上空。山手通りができる前の姿で、隣接する金剛院とともにかなり広い境内だったのがわかる。
■写真下:参拝者が途切れない拝殿を正面から。氏子が多いせいか、献納の狛犬がたくさんいる。


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ChinchikoPapa

いつも、たくさんのnice!をありがとうございます。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2009-12-30 16:26) 

たいちさん

先日、東京へ行った時に、この神社を参拝しました。大変参考になりました。
by たいちさん (2013-06-07 15:24) 

ChinchikoPapa

たいちさん(さん)、コメントとnice!をありがとうございます。
山手通りの拡幅で、金剛院やその反対側にある公園が、さらに圧迫されたような雰囲気になり、椎名町駅も大きく変わって学生時代の風情はなくなりつつありますが、長崎神社の空気は昔と変わらないです。
by ChinchikoPapa (2013-06-07 15:50) 

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