空き地を見ると不安になる。 [気になる下落合]
目白文化村の第二文化村南端に、空き地を見つけた。またしても集合住宅か?・・・とうんざりしたのだが、よくよく見ると様子がちがう。例の建設計画の看板が、どこにも掲げられていないのだ。近寄ってみると、「新宿区/公園予定地」という小さなプレートが風にヒラヒラと揺れている。少しホッとしたのだが、ぜひ文化村の風情に見あった公園にしてほしいものだ。
1923年(大正12)、第二文化村が販売されると間もなく、ちょうどこの空き地のある一画に土地を買って家を建てた人がいる。島峯徹(島峰徹)という医学博士だった。この方、東京医科歯科大学の創立者のひとりなのだが、いまでは大学のWebサイトにも名前を見つけることができない。もともとは歯科と口腔科が専門で、戦前の日本における歯科学の権威だった。
1928年(昭和3)に、東京高等歯科医学校(東京医科歯科大学の前身)を創立し、しばらくのちに国際歯科学士会日本支部(IDC)の設立メンバーにもなっている。1929年(昭和4)には、「フェロー」と呼ばれる歯科医の中でも指導的な役割をはたす国際資格も取得していた。戦前、この「フェロー」を取得していた歯科医師は、日本にわずか3人しかいなかったという。
江戸時代から、日本では「歯」に関する施療医がたくさんいた。歯の全般を治療する、文字通り「歯医者」をはじめ、入れ歯専門の技工士「入歯師」(入歯渡世人)、痛い歯を即座に抜いてくれる「歯抜き」など、江戸の町辻では「歯」に関してかなりの分業化が進んでいたようだ。このような、歯をテーマとする専門的な職業が発達していたのと、日本人の歯に寄せる関心の高さのせいで、明治以降、日本の歯科学界はスムーズかつ急速に進歩することができたのだとさえ言われている。いまや、日本の歯科技術は、世界最高の水準にあるそうだ。
戦後、急速な歯科発展の基盤を築いたひとりである島峯徹は、1945年(昭和20)の敗戦を知ることなく同年に死去している。戦前の島峯邸は、公園化が予定されているこの空き地を含めてもっと大きかったが、いまその敷地の半分を歯科医ではなく、眼科医が開業しているのがなんとなく面白い。
■写真上:公園化が予定されている、旧・島峯邸の一部にあたる空き地。
■写真中:歯科医が少なく、明治期になっても開業していた入歯師の看板。
■写真下:戦後すぐのころの、第二文化村にあった島峯邸を上空から。
近代建築探訪者は空き地を見たら、ショック死しそうです。
by 小道 (2005-10-12 20:21)
(笑) わたしも、下落合で空き地を見つけるとドキッとします。
更地になってしまうと、以前にどのような建物があったのか、
記憶がとても曖昧な自分に気づいて、愕然としますね。
by ChinchikoPapa (2005-10-12 20:39)
そうなんです。どこにあったのか、とっても曖昧なんです。
それはそれは悲しいぐらい、忘れてしまう。
何かにせかされるような気分で、探訪を続けています。
by 小道 (2005-10-12 22:01)
人に言われて、アッと思い出すこともしばしばです。素敵な風景が、記憶の中から少しずつ消えて忘れられていくのは、なんとなく自身の脳細胞が死滅していくような感覚で、嫌な気分になります。
これも消えないうちに・・・と、来週は地元に残るとびきりの伝説付きライト風デザインのお屋敷を紹介したいと思います。(^^
by ChinchikoPapa (2005-10-12 23:56)
こちらにも、nice!をありがとうございます。>漢さん
by ChinchikoPapa (2009-08-27 16:11)