日本橋っ子は神田っ子に弱い。 [気になる神田川]
昔から江戸東京の中心、日本の五街道の起点であるはずの日本橋は、お隣りの神田にめっぽう弱い。言い争いをしていると、最後の最後に神田っ子は今でもこんなことをいう、「なにいってやがんだい、山頂の神田明神をわざわざお茶の水に移して、神田山を崩して埋め立ててやった土地柄じゃねえか」。・・・「その通り、あんたのおっしゃる通り!」なのだ。ここで日本橋っ子は、まるで葵紋の印籠を見せつけられた悪代官のように、「こりゃどうも、怖れ入谷の鬼子母神(きしもじん)」とすごすご引っ込むしかない。互いに譲れないことが起きると、日本橋っ子vs神田っ子は、いまだにこんなことを言い合いしながら楽しく遊んでいる。
でも、日本橋が神田に弱いのは、神田山を譲ってもらったからばかりではない。ついでに、川の水も譲ってもらっていたのだ。当時は、おとめ山公園の御留山と同じように、御留川と呼ばれた神田上水の水を、江戸初期から神田一帯を利用して、日本橋界隈までくまなく水道管により供給してもらっていた。だから、神田山にも神田川にも義理があるので、いまだ恩着せがましく言われてしまうと、「あんたのおっしゃる通り」・・・と日本橋側は譲ってしまう。ここで、「いまさら、なに言ってやがんだい。だから、どうしたってんだ!」と開き直らないところが、日本橋の奥ゆかしいところなのだ。
ビルの工事などをすると、東京のあちこちから、いまだに江戸期の水道管が数多く発掘される。これらの水道管は、江戸時代のみならず明治維新をはさんで明治期の末まで、そのまま東京市で使われていた。江戸は、水道管が網の目のように張り巡らされた、ロンドンと並ぶ世界でもまれな水道都市だった。下の図は、江戸期の神田上水から水道橋を経て、神田や日本橋へと引かれた大きな水道管の配管図だ。ここに描かれているのは主流管(万年石樋と幹管)だけなので、各町内や裏店までも引かれたより細かな支流管(木樋)は描かれていない。細かな支流管まで描きこんだら、それこそ現代の水道管網と同様、細かい網をかぶせたように真っ黒な図版となってしまうだろう。
また、この図は初期の神田上水のみ想定したものだから、浜松町や三田、品川方面、あるいは江戸後期の浅草、本所、深川の方面までの記載がない。玉川上水が拓かれてから、後期にはもっと大規模な水道配管システムができあがっていただろう。江戸の街中へ水道水を供給するには、水道管に圧力をかけるポンプは存在しないから、水が流れる自然の落差を利用していた。市中水道の起点である水源地の井ノ頭から、後楽園(水戸徳川家上屋敷)近くの水道橋をへて、大川(隅田川)を水道橋が渡り本所・深川の向こう、洲崎や木場、砂村、亀戸あたりまでの地下水道管の落差は、約92mといわれている。
でも、神田上水がいくら山手を流れているからといって、大川を挟んだ深川の向こうまで、わずか92mほどの落差で各町内隅ずみ、水道水が潤沢に行きわたるものだろうか。そこには、江戸期ならではの独特な水道の配管技術があった。つまり、水道管が低いところに敷かれていても、より高いところへと水を流す仕掛けが工夫されていた。地中に密閉した「枡」を埋め、自然の圧力で水道水を上へ上へと押し上げる手法だ。だから、大川を越えて本所・深川界隈にまで、神田上水の水道水は容易に供給できたのだ。
江戸期に埋設された水道管は、万年石樋および木樋ともに、現在の金属でできた水道管よりもはるかに頑丈で長持ちするといわれている。発掘した専門家たちが、水道の遺構を調べて舌をまくゆえんだ。石樋の精巧さはもちろん、ヒノキやマツで造られた木樋は船大工の技術がふんだんに取り入れられ、まったく漏水せず100年やそこらで腐食しない仕事がなされていた。配水技術からみれば、水道管の漏水率、つまり途中で水道管から地中へと漏れてしまう失水量は、江戸期よりも現代の腐食しやすい金属管のほうが、はるかに高いとさえいわれている。
神田上水は、1901年(明治34)まで水道水として利用され、東京市中へと供給されていた。1899年(明治32)、新宿に淀橋浄水場が完成すると2年後に廃止されているが、水道管はそのまま明治の末まで使われつづけている。
■写真上:下落合を流れる、いまの御留川(神田上水=神田川)。
■写真下:左は、江戸期の神田上水の主要配管網。細かな支流管はすべて省略されている。右は、1988年(昭和63)に本郷で発見された万年石樋。現在でも使用できるほど、頑強に造られていた。
■図版:江戸期の水道管のしくみ。低所からも、「枡」の水圧を利用して高所へ配水されていた。
すごい!としか言いようがないですね。
江戸時代のあちこちの上水シリーズというのもおもしろいかも。
by エム (2005-10-14 13:27)
すごいですよね。上水道とともに、下水道も江戸初期には造られ始めていますが、汚水をそのまま河川へと流すので、幕府が汚濁防止のためすぐに禁止してたりします。日本のほとんどの地域では、トイレは大正期以降、汲み取り式→水洗式ですが、江戸の街はまったく逆で、水洗式→汲み取り式→水洗式(東京)という経緯をたどってますね。
上水シリーズよりも、トイレシリーズのほうが面白いかもしれません。(>_<;☆\
by ChinchikoPapa (2005-10-14 16:00)
こんにちは。
江戸の配水の仕組みが分かりや図解でよく理解できました。
当時これだけの街づくり(インフラ)が行われていたとは、すばらしいですね。
by sig (2008-10-09 15:35)
こちらにもコメントとnice!をありがとうございました。>sigさん
万年石樋はその名のとおり、現在でも十分に使用できる状態にあるようですね。震災で金属の水道管がズタズタになったときの、バックアップ水道インフラとして、埋められたままのところはそのまま江戸水道を使えるといいのに・・・と思ったりします。^^
by ChinchikoPapa (2008-10-09 18:26)