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寒くて遠出はひかえたものか。 [気になる下落合]


 この絵の風景の特定には、案外手間どってしまった。佐伯祐三は、目白文化村のはるか西、当時の旧・下落合4丁目(現・中落合4丁目+中井2丁目)の果てまで出かけて行って、「下落合風景」作品群を描いているようだ。だから、家がまばらな作品を観ると、つい昭和初期の目白文化村から西側、あるいは南側に、類似する地形や家並みがないかどうか探してしまう。
 この作品は、1927年(昭和2)に描かれている。つまり、1926年が暮れて年が明けたあたりで、下落合にかなりの積雪があったようだ。この積雪は、「下落合風景」というタイトルではなく、「雪景色」(1927年)と名づけられた作品にもつながる光景なのだろう。真っ直ぐな道の先は、やや左へとカーブしながらつづいている。右側には屋根に雪の残る、あまり特徴のないふつうの住宅。その家屋の向こう側にも、住宅らしいフォルムが黒っぽく小さめにのぞいている。その周囲には、落葉した雑木林がまだ濃く、広範囲に残っている。
 これほど長くつづく道で、家がほとんど建っていない場所は昭和初期とはいえ、いまの下落合側(現・下落合1~4丁目)には存在しない。また、現在の中落合4丁目や中井2丁目付近には、この絵に近いポイントがいくつか発見できるが、周囲はほとんどが田畑であって、雑木林の残るポイントは意外に少ない。目白文化村の第一文化村および第二文化村とその周辺は、大正末から家々が建て込んでいるので、このような風景は見つからなかった。道は平坦で坂が見えず、しかも目白崖線(バッケ)が見えないところをみると、丘上の道だと思われる。
 
 そしてもうひとつ、写生の当日はかなり寒かっただろうから、佐伯祐三は遠出をしただろうか?・・・というテーマもある。「雪景色」(1927年)もそうだが、佐伯祐三の自宅兼アトリエ近く、第三文化村ないしは第四文化村界隈の景色ではないか・・・と想定してみた。絵をよく見ると、右手の住宅の手前の空き地が、宅地としてすでに造成・整備されているように見える。道に沿って白く見えるのは、文化村造成で区画割りや整地に多用された、大谷石の基盤石ではないだろうか。

 作品が描かれてから10年後、1936年(昭和11)の空中写真を探していたら、佐伯祐三のアトリエ直近に、それらしい道筋を見つけることができた。第三文化村Click!から南へとつづく道、右手にはできて4年が経過した聖母病院がある、不動谷Click!の尾根道だ。もちろん、佐伯がこの絵を描いた当時は、まだ聖母病院も聖母坂(45号線)も存在していない。第三文化村の51区画が売り出されたのは1924年(大正13)で、この絵が描かれるほぼ2年前のことだ。第三文化村から、やがて目白崖線下へとつづく道だが、まっすぐ進むと徳川邸から西坂をくだり、現在の下落合駅へと抜けることができる。佐伯がこの作品を描いた当時、西武電気鉄道(西武新宿線)は開業へ向けて、最後の整備をしていたころだ。

 聖母病院が完成した1931年(昭和6)ごろから、この尾根道の両側には急速に住宅が建ち始める。1947年(昭和22)の空中写真からは、すでに住宅街と呼べるほど家々の建て込んでいたことがわかる。この絵の道が、不動谷の尾根道に間違いないとすれば、絵の右に描かれた住宅は、戦災で焼けてしまっているのが見える。

■写真上:佐伯祐三「下落合風景」(1927年・昭和2)。
■写真中上は、1936年(昭和11)の様子。描画ポイントから大きめの住宅が手前に、小さめの住宅がその向こう側にあるのがわかる。周辺は、濃い雑木林に覆われている。は、1947年(昭和22)の同所。すでに道の両側には、かなり家々が建て込んでいるのが見える。
■写真中下:1931~32年(昭和6~7)に、完成したばかりの聖母病院敷地から見た、第三文化村の光景。尾根道から手前の聖母病院にかけ、急激なバッケ(崖)がつづいていた。
■写真下:現在の尾根道。右手にブロック塀のあるお宅が、絵に描かれた家と同一敷地。


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