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中村彝タッチの下落合風景。 [気になる下落合]

 「下落合風景」のシリーズではないが、もうひとつオマケに佐伯祐三の作品から。「目白自宅附近」と題されたこの作品は、どう観ても中村彝(ひいてはルノワール)の影響が色濃く出ていて、のちの佐伯のオリジナリティを感じることができない。中村彝Click!にも、「目白の○○」とタイトルされた下落合風景が残るが、佐伯のこの作品は明らかにその模倣だ。まだ、東京美術学校へ通っていたころの習作だろうか。1995年(平成7)に発見された、渡仏してヴラマンクとの邂逅前の、下落合を描いためずらしい初期作品だ。
 一見してすぐに、下落合の斜面に残るケヤキやクヌギ、コナラなどが繁る武蔵野の雑木林だとわかる。住宅も電柱もまったく見えないのは、この絵が描かれたのが1922年(大正11)前後だからだろう。1922年(大正11)から、ようやく目白文化村Click!の第一文化村分譲が始まる時期だ。附近には、まだ人家がそれほど建て込んでおらず、かろうじて第一文化村寄りの目白通り沿いに、明治末から造られた府営住宅が並んでいた。

 佐伯の自宅兼アトリエのすぐ南側は、もちろん当時は聖母病院も聖母坂(45号線)もなく、西寄りには不動谷、東寄りには諏訪谷の、ふたつの谷戸が大きく口を開いていただろう。まるで、別荘地にでも来たような自然そのままの風情だったに違いない。この作品の斜面がどこかは厳密に特定できないが、タイトルを「附近」としていることから、自宅から至近の風景の可能性が高い。崖線の傾斜角がややゆるやかで、ちょうど谷戸の突き当たりのような地形をしていることから、目の前に拡がる不動谷へ下りて描いたのではないか?
 明治期までは「不動谷」と呼ばれたこの谷間(大正期以降は落合第一小学校前の谷間に、なぜか地図上では移動している)は、昭和初期までほとんど人家はなかった。谷の東側の尾根筋、現・下落合4丁目(旧・下落合2丁目)には、大正中期からすでに家が建ち始めていたろうが、西側の尾根(現・中落合3丁目)は第三文化村の分譲(1924年・大正13)が開始されるころまで、家の影はほとんどなかっただろう。だから、この絵は不動谷の低地から、西側(あるいは西南)の尾根筋を描いたように思えるのだ。

 上の写真は、聖母病院と45号線(聖母坂)ができた直後、1931年(昭和6)ごろの不動谷の様子だ。ここに写る建物や道路は、昭和に入ってから建築あるいは敷設されたもので、1921年(大正10)前後にはほとんど存在しなかった。佐伯祐三は、自宅のすぐ南側に拡がる、斜面からは泉が湧き、小さな池や沼が散在するこの谷間に惹かれて、キャンバスとイーゼルを手に斜面を下っていったのではなかったか?

■写真上:佐伯祐三「目白自宅附近」(1923年・大正12)。
■地図:佐伯が下落合へ転居してくる2年前、1918年(大正7)の「戸塚・落合地形図」より。
■写真下:開院直後の聖母病院(1931年ごろ)。病院背後の森に散在するのは、分譲7年後の第三文化村の家々。谷間の東側、急峻な尾根上から眺めたところ。


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