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荷風が愛した「念仏段々」。 [気になるエトセトラ]

 曙橋から住吉町・河田町へとつづく、旧・フジテレビのあった商店街の右手途中に、「念仏坂」という地味な坂道がある。この商店街は、江戸期には安養寺の門前町、「市ヶ谷谷町」と呼ばれたところで、江戸中期には岡場所(私娼街)があったことでも知られていた。幕末の切絵図でも、門前町とともに念仏坂の名称が記載されている。地元では念仏坂とは呼ばずに、戦前から俗称「念仏段々」で通っていたようだ。「念仏だんだん」、ちなみに出雲の松江弁とは関係ない。
 念仏坂の由来は、記念プレートに書かれているのを見ると、『新撰東京名所図会』からの引用で、昔、近くに老僧が住んでいてしじゅう念仏を唱えていたからだ・・・とされている。また、両側が切り立った崖場だったので、そこを下る人々は命からがら、念仏を唱えたからだという説も紹介されている。だが、この念仏坂をことさら有名にしたのは、これらの故事やいわれからではない。できるだけ傾斜をゆるくしてコンクリートやアスファルトで固めず、急な斜面のまま階段状にして昔日の情緒を残しているのは、永井荷風の影響が大きいのではなかろうか。

 永井荷風の『日和下駄』(1915年・大正5)には、この坂がことのほか気に入った様子が描かれている。そう、安養寺脇から西へと曲がって坂道をのぼり、2本目の道を右へ折れたところに、永井荷風の旧居=「断腸亭」があった。ここは、永井荷風にとっては“庭先”の町なのだ。
  
 どうか東京市の土木工事が通行の便利な普通の坂に地ならししてしまはないやうにと私はひそかに念じてゐる。(岩波版『全集』11巻より)
  
 荷風が念じたとおり、念仏段々は地ならしされず、アスファルトで固められもせず、周囲の景観は変わったけれど、いまも昔ながら急坂の姿を残している。荷風が市ヶ谷余丁(町)の父親の家に住んだのは、パリから帰国した1908年(明治41)から、築地へと転居する1918年(大正7)までの10年間だ。ここで、代表的な名作が多く書かれたが、『断腸亭雑藁』(1918年・大正7)にも、周辺の街の様子が細かく描写されている。ちなみに、永井荷風は典型的な山手人の視点や趣味で、東京の「下町」を散策し、眺め、描写している。ちょうど、わたしとは正反対の視座だ。
 さて、この念仏段々や安養寺が左右に並ぶ商店街の道を、まっすぐに進み右手の急坂をのぼると、目の前に東京女子医科大学病院の建物が見えてくる。下のオスガキが喘息気味だった幼児のころ、さんざんお世話になった病院だ。病院1号館は1930年(昭和5)に建てられたまま、空襲でも焼けずに残った。もっとも、病院だったことは米軍にも知られていたろうから、下落合の聖母病院と同様、B29は焼夷弾の投下を避けたのかもしれない。
その後、聖母病院には爆弾が命中Click!していることがわかり、米軍の「病院への爆撃は避けた」は、戦後、情報機関によって意図的に流布された情報操作の“神話”Click!である可能性が高い。
 
 この東京女子医大病院の一部、あるいは月桂寺の並び、さらに旧・フジテレビのあったあたりは、もともと尾張徳川家の中屋敷があったところだ。中屋敷は、紀尾井町の上智大あたりにもあったのだが、ここも切絵図では中屋敷とされている。尾張中納言の上屋敷といえば、現在の市ヶ谷にある防衛庁の敷地をはみ出すほど広大だったが、そのすぐ傍らに中屋敷が、そして中屋敷の北側には戸山ヶ原のこれまた広大な下屋敷があったことになる。
 明治維新後、上屋敷は陸軍士官学校や参謀本部に、紀尾井町の中屋敷は政府用地に、下屋敷は近衛騎兵連隊や射撃場・練兵場、陸軍戸山学校・幼年学校などに接収され、市ヶ谷の中屋敷も一部が陸軍経理学校となり、尾張徳川家はこの狭い(といっても庶民から見れば広大だが)一画のみとなってしまった。そして、やがては東京市の郊外だった目白に引っ越してくることになる。

■写真上:念仏段々の現状。かなり急なバッケ(崖)状なので、お年寄りや子供は手すりにつかまらないと危ない。
■切絵図:金鱗堂・尾張屋清七版『牛込市谷大久保絵図』(1854年・嘉永7)。
■写真下は東京女子医大病院の1号館。は、荷風が住んでいた1918年(大正7)ごろの余丁(町)。織田一磨『武蔵野の記録』より。(部分)


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