戦後すぐの下落合広告「三越」。 [気になる下落合]
いま、こんな広告案を三越へプレゼンテーションしたら、出入り禁止で二度と仕事が来なくなるような野暮ったいキャッチフレーズ、「大切なお金で上手なお買物」・・・。手持ちのおカネが少なく、上手な「お買物」をしたいのであれば、いまならまず日本橋三越なんて行かないだろう。戦後すぐのころ、昭和20年代の三越が打っためずらしい媒体広告。
三井越後屋は江戸期、呉服の大店(おおだな)としては最初に、「現銀掛値なし」の商売を始めている。この「正札」商売によって、三越は周囲の呉服屋仲間(組合)から怨みをかって仲間外れとなり、日本橋の表通りから金座の手前、駿河町の脇道へと追いやられてしまった。いま風にいえば大量販売の大安売り店、まさにディスカウントショップのような存在だった。利幅をあらかじめ限定し、適正な値札を公開して販売するから法外な利益は上げない・・・というこの「正札」商売は、従来の相手を見て交渉しながら販売していた商法からみれば、まさに流通の革命だったのだ。
たとえば、同じ反物や小間物でも、金持ちには10両で、そうでもない客には2~3両で売っていたのが、どのような客にも2両の正札で提供し始めた三井越後屋の商法は、裏表のキライな江戸っ子の気性ともマッチして、その後、ますます繁盛するようになる。結局は、日本橋の白木屋や大丸をはじめ、大江戸の各店も次々と「現銀掛値なし」の商売に染まり、幕末になると、三越は日本橋・・・というか大江戸最大の呉服・小間物百貨の大店へと変身していた。
それが明治期以降になると、まったく正反対に高級百貨店へと事業方針の大転換をはかる。呉服大店のデパートメント化とともに、三越に行けばなんでも質のいい品物が手に入るというイメージ戦略は、デパートが斜陽化した現在でもそのまま生きつづけている。わたしが子供のころ、親がデパートといえば日本橋三越か、下谷広小路(上野)の松坂屋だった。40年前、山手の下落合でデパートといえば、なによりも伊勢丹で少し遅れて新宿三越だったのと同じような感覚だろうか。それほど、買い物の“定番”のような存在だったのだ。
以前、面白い体験をした。日本橋三越の天女(まごころ)像の存在が、すっかり記憶の中から消え失せてしまっていたのだ。デパート創業50周年の節目、1960年(昭和35)に10年の歳月をかけて(ということは昭和25年から)創られたこの巨大なオブジェは、わたしも子供のころ必ず目にしていたはずなのに、すっかり忘れていた。だから、天女像を目前にして、いまさらながら改めて驚いてしまった。でも、不思議なことに、その裏側の大理石壁面にあるアンモナイト類の化石のことは、とてもよく憶えていたのだ。そう、日本橋界隈のデパートへ出かけると、大理石の壁面に化石を探すのも大きな楽しみのひとつだった。どうやら天女像は、あれだけ巨大な“美術品”であるにもかかわらず、男の子の目をまったく惹かなかったようなのだ。
久しぶりに、日本橋三越に寄って化石の表面を撫でてきた。でも、買い物はせずにコーヒーを1杯飲んできただけだ。
■写真上:左は、日本橋三越本店の正面。右は、広重『名所江戸百景』第8景「する賀てふ」(駿河町)。手前の呉服大店が三井越後屋で、通りを奥へ進むと右手には金座(現・日本銀行)がある。正面は源氏雲で手抜きをして描かれてないが(最晩年の広重なので仕方がないが)、千代田城の常磐橋と鍛冶橋の間、北町奉行所あたりの屋根が見えているはずだ。
■写真中:左は、天女像の光背を真裏から。右は、その真うしろの壁面にあるべレムナイトの化石。
■写真下:大正期に作られた、三越の「買い物双六」。きょうは帝劇あすは三越・・・と言われた時代だった。川端龍子のデザイン。
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