下落合は巨大なミステリーサークルだらけ。(8) [気になる神田川]
上落合は、神田川流域では地表面に大きな正円形がいくつも確認できる、サークルの密集地帯といってもいいだろう。1947年(昭和22)の空襲跡も生々しい、多くの地表面が露出した空中写真を見ると、サークルが確認できるその密度の濃さに驚く。また、地名などからも「西大塚」や「東大塚」、「八幡山」、「月見岡」など、もともとは墳丘に付けられたとおぼしきものも少なくない。上落合から小滝橋を経て、大久保の百人町あたりは、実際に古墳と確認された発掘例も多いので、「百八塚」Click!のメッカだったのかもしれない。
また、上落合地域は古墳遺跡ばかりでなく、古墳時代はもちろん石器時代から近世にかけての集落跡が、まんべんなく確認されているエリアでもある。でも、大名の下屋敷や寺社が多く、敷地や境内に古墳が残りやすかった下戸塚(早稲田界隈)とは異なり、かなり早くから開墾されていたらしく、明治期以降まで残っていた墳丘と思われる塚はそう多くない。本格的とはいえないが、いちおう発掘調査が行われたのは、上落合では改正道路(山手通り)の開通時に崩された「大塚古墳」と、旧・月見岡八幡の境内である八幡(山)のみだった。
おそらく、上落合から大久保百人町にかけては、かつて鎌倉期か室町期あたりにかけ「百八塚」と呼ばれた、墳丘が連なる中心地帯だったと思われるのだが、現在は隅々まで宅地化が進んでいて、まったく当時の面影はない。時おり、マンション建設にともなう発掘調査(最近では上落合二丁目遺跡調査)で、古墳時代の遺構が確認されるのみで、古墳に直結する玄室や副葬品が発見される例は少ない。同じ神田川流域でも、早稲田界隈の田畑開墾は江戸期に集中していて、塚を崩して古墳から出土した埋蔵物が庄屋文書の記録として残されたり、近辺の寺院や社へ出土品が奉納されていたりしているが、上落合地域はさらに古くから開墾が進んでいたものか、古墳や出土品の詳細な記録は残されていない。
幸運にも、祠が奉られて聖域化し、開墾されずに残った「大塚古墳」(円墳)と、1962年(昭和37)に道路工事のために移転した月見岡八幡の旧・境内、早大のキャンパス下にあった富塚古墳(前方後円墳/高田富士)とまったく同様に、「上落合富士」が墳丘(円墳)に築かれていた八幡(山)=現・八幡公園一帯のみ、発掘調査が可能だった。
落合第二小学校の校庭を除き、ほとんどの古墳と思われるサークル跡は現在、住宅街の下に埋没してしまっている。江戸期以前から開墾が進んでいたとすれば、塚が崩された際の様子や出土品なども記録に残らず、そのまま打ち棄てられた可能性が高く、いまから発掘してもめぼしい成果は得られないのかもしれない。では、上落合一帯に残ったサークルClick!を観察してみよう。
■写真上:いくつかの塚(円墳)が重なって、早くから聖域化していたとみられる旧・月見岡八幡の境内跡。現在は八幡公園となっている。
■写真下:月見岡八幡の拝殿。背後には、「上落合富士」の山頂にあったと思われる富士の溶岩がいまでも残っている。墳丘は崩されてしまったが、富塚古墳(高田富士)の山頂にあった溶岩が、いまは甘泉園公園脇に積み上げられているのと同じようなケースだ。
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