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悲劇がまとわりつく行人坂。 [気になるエトセトラ]

 2000年(平成12)ごろだったか、本郷丸山から明治期に染井(巣鴨)へと移転した本妙寺が、「うちは振袖火事の火元ではない」と、改めて戦後何回目かの記者会見を開いた新聞記事を見た。10万人以上が焼死したとされる、江戸時代で最悪の振袖火事(明暦の大火)は、本妙寺の境内で不吉ないわれのある振袖を焼いている火が屋根に燃え移ったことになっているが、ずいぶん以前から歴史家の間でも疑義が提出されていた。
 実際には、本妙寺に隣接するように建てられていた、老中の阿部伊予守の屋敷が火元だったようだ。これだけの大惨事の火元が幕府の老中屋敷では、江戸市民へまったくしめしがつかないので、本妙寺に罪をかぶってもらったのだろう。事実、幕府からは火元とされる本妙寺に対してはなんらお咎めがなく、また阿部家からは大正期の関東大震災の直前まで、毎年、寺へ少なからぬ「振袖火事の供養料」という名目で寄進があった記録が見えている。阿部家から本妙寺への大火寄付は、1657年(明暦3)の翌年から1923年(大正12)にわたり、実に260年もつづいたことになる。「供養料」の寄進なら、死者の大多数が眠る本所回向院が筋だろうに、阿部家の行為は明らかに異常だ。
 もうひとつ、寺が火元とされる火事がある。目黒から大川(隅田川)をわたって深川までと、焼失面積では江戸期最大となった、行人坂火事(明和の大火)の火元だった大円寺だ。1772年(明和9)に起きたこちらは失火ではなく、寺へ盗みに入った男による放火だった。犯人はすぐに捕まり、同年6月火刑に処せられている。
 
 急峻な行人坂の中ほどに、大円寺はいまも元の位置に建っている。いくら放火とはいえ、火元となったところは管理不行きとどきとしてお咎めを受けなければならない。こちらは、大火後90年間も寺の再建が許されなかった。振袖火事の本妙寺が、すぐに再建されたのとはなんとも対照的なのだ。境内に入ると、すぐ左手にある釈迦三尊と五百羅漢が目を惹くが、寺の再建後、行人坂火事の殉難者のために建立されたものだ。
 目黒の台地は、江戸期には「永峰村」と呼ばれ、行人坂のある崖線の上は眺望抜群な「夕陽ヶ丘」と名づけられていた。急峻な坂の途中に、庵を結んだ行者がいたので「行人坂」といわれたようだが、お七火事(天和の大火)の伝説とも結びついていまや判然としない。大円寺には「於七地蔵」があり、坂下の目黒雅叙園入り口には、恋人が出家して水垢離を行った「於七井戸」なんてものまでが存在している。おそらく、一度も江戸へ出たことも取材したこともない大坂の西鶴は、いまごろ地下でシメシメとほくそえんでいるに違いない。
 もうひとつ、行人坂で忘れちゃいけない芝居がある。岡鬼太郎が二代目・市川左団次のために書いた、新歌舞伎『今様薩摩歌(いまよう・さつまうた)』だ。いまでは、めったに上演されることもなくなったが、わたしが子供のころは明治座などでまだかかっていたようだ。誕生八幡の養子三五兵衛と、紺屋の娘おまんが織りなす悲恋の物語だ。結婚を承知しない親をなだめて、このふたりを預かることになった薩摩藩士・菱川源五兵衛だが、おまんに横恋慕をして「よいではないか」攻撃を始めてしまう。もう、ドロドロの三角関係なのだ。

 怒った恋人の三五兵衛は、行人坂で源五兵衛と決闘をすることになるが、逆に源五兵衛に斬られて目黒川へと蹴りこまれてしまう。三五兵衛が殺されたのを見て、おまんはわき腹を刺して自害し、それを見ていた菱川源五兵衛も切腹する・・・という、なんとも救いようのない物語なのだ。恋してはいけないと思いつつ、おまんにどんどん惹かれておかしくなっていく源五兵衛の役どころが、二代目・左団次の当たり役だった。
 目黒川の太鼓橋へと抜ける急峻な行人坂は、昔もいまも歩きにくい。大円寺が火元の大参事がベースとなり、お七火事の伝説や『今様薩摩歌』の物語が紡がれるなど、この上り下りをためらうような急な坂道を悲劇の舞台に仕立てようと考えた人は、少なくなかったに違いない。

■写真上:大火の殉難者を弔った大円寺の五百羅漢。手前には釈迦三尊が建立されている。
■写真中は、1955年(昭和30)前後のみどり豊かな行人坂。坂の左手には目黒雅叙園Click!がある。は、坂下にある「於七井戸」。
■写真下:『今様薩摩歌』より、二代目・市川左団次の菱川源五兵衛。(戦前)


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ChinchikoPapa

こちらにも、「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
by ChinchikoPapa (2019-02-27 13:55) 

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