お嬢様は少し、はしたのうございますよ。 [気になる下落合]
「まあ、ばあや、ご覧!」
「おやまあ、こっからの眺めだけは、戦争前とあんまし変わりませんですねえ」
「不忍池はいまでも、蓮のお花がたくさん咲くのでしょうねえ。まあ、岩崎様のお宅が見えます」
「ここを埋めちまって野球場にしようなんてえ、べらぼうな計画があるんだそうでございますよ」
「まあ、そんなこと。・・・イヤです!」
「そうでございますとも、お嬢様。これからは、みどりトラストの時代でございますよ」
「そ、そんな時空がゆがんだことお言いだと、わたくし、また頭痛がするからやめておくれ」
「はい、すいませんです、お嬢様」
「マッカーサーが、野球場にしようなんてお言いなの?」
「いえ、地元の商工会の連中でございますよう」
「まあ、そんなこと絶対にダメです。だいいち、野球なんてお品のない・・・」
「おや、去年の秋、慶応にお勤めの殿方に誘われて、早慶戦をご覧になったじゃありませんか?」
「あ、あれは、あのお方があまりにしつこくお誘いになるので、仕方なくご一緒したまでです」
「うれしそうに慶応の小旗をふりながら、♪コ~ンペキの~ソラ~を歌われてのお帰りでした」
「あのお方は、わたくしよりフォードのほうが大切なようですので、とうにお断りいたしました!」
「はいはい、そうでございましたね」
「お返事はひとつです、ばあや」
「あ、はい。・・・ところで、お嬢様はなにを召し上がります?」
「・・・そうね~、せっかく精養軒に来たのですから、ハイカラなものがいいわね」
「そうでございますとも、お嬢様」
「この前、三越で誰かさんのおかげで頂きそこなった、ポークソテーClick!にしようかしら?」
「それは、よろしゅうございますねえ」
「・・・ええ、わたくしはポークソテーに」
「およろしいですか? ・・・ちょいと、兄さん!? ねえ、兄さん、こっちよ!」
「シーーッ、みなさまが見てるわ。ねえ、ばあや、お願いだから、こういうところで大きな声を出さないでおくれ。まあ、恥ずかしいこと。それに、“兄さん”じゃなくてウェイターです」
「おやまあ、すいませんです、お嬢様。なにせ、育ちが大川端なもんですから・・・」
「シーーッ、これからは気をつけておくれ」
「はいはい」
「お返事はひとつです」
「はい、お嬢様」
「来たわ」
「あ、兄さん、じゃなくてウェイターさん、え~とねえ、ポークソテーをひとつと、もうひとつは・・・・・・・・・あたしは、フォアグラ添えのやわらかいビフテキでいいわ。そうだ、よく焼いてちょうだいね」
「・・・ちょ、ちょっとお待ち、ばあや!」
「はい、お嬢様、なにか?」
「わ、わたくしがポークソテーで、ばあやがフォアグラ添えのビフテキって、それ、ちょっとおかしくはないこと?」
「おや、そうでしょうか、お嬢様」
「わたくしがポークソテーでしたら、ばあやはわきまえてカレーライスとか、オムライスとかハヤシライスとか、穏当にそのあたりを注文するのが、ばあやのたしなみだと思うの」
「シーーッ、お嬢様、声が高うございますよ」
「だって、どうしてわたくしがポークソテーで、ばあやがフォアグラ添えのビフテキなの!?」
「あれまあ、お口に入れるもののことで、そんなにムキになられて大声を出されては・・・。下落合のお嬢様らしくありませんでございますよ」
「ばあや、そういう問題じゃないでしょ!」
「前々から、ばあやは気になってましたんですが、お嬢様は少し、はしたのうございますよ」
「・・・ど、どこかでなにかが、思いっきり間違っています、ばあや!」
「シーーッ、こういうところで大声を出されてはいけませんですよ、お嬢様。・・・ここんとこ歯が悪いから、せっかくやわらかいビフテキにしたのに。じゃあ、しょうがありませんから、あたくしもお嬢様にお付き合いして、ポークソテーにしちまおうかしら・・・」
「おやまあ、まだ早かったようですね、お嬢様」
「演奏会は6時からですから、まだ、どなたもおみえではないようね」
「ええと、なんてえ新進ピアニストでしたっけ?」
「近衛町の秀麿様のお弟子で、團伊玖磨というお方です。それに、團様は作曲家をめざされていて、ピアニストではないわ。昨年、交響曲第1番を作曲されてよ」
「なんだ、本職てえわけじゃないんですか」
「あら、ピアノもとってもお上手だわ」
「お嬢様、真ん中あたりにお座りになられて・・・。あたくし、もうポークソテーで胸焼けがして、まあ胃にもたれて・・・。ちょいと失礼して、先に腰かけさせていただきますです、ヨッコラショ」
「・・・フォアグラとビフテキのほうが、よほど胸焼けがしそうです」
「あ~、気持ちわる。あたくしにはフォアグラとビフテキのほうが、消化がいいんでございますよ」
「・・・あらっ? まあ、たいへん!」
「おや、どうなさいました、お嬢様?」
「わたくし、お扇子を忘れてきてしまいました」
「あらまあ、精養軒にでございますか?」
「いいえ、そのあとに寄った動物園です」
「おやおや、まあ、それは・・・」
「あの白檀のお扇子は、大磯の叔父様の大切なお形見なのです。ばあや、探してきておくれ」
「おやまあ、大磯の旦那様の・・・。そいで、動物園のどちらに?」
「ええと、わたくし、獣臭かったので、お扇子をバッグから取り出して・・・」
「サル山の前の、ベンチでございますか?」
「いいえ、サルじゃなくてよ。キリンでもなくて、カバだったかしら」
「憶えてらっしゃらないんでございますか、お嬢様?」
「ええと、お待ち、いま思い出します。・・・バクでもサイでも、ゾウでもないし」
「そいじゃ、広い動物園を探しようがありませんです」
「・・・ヒグマでもトラでもワニでも、アナコンダでもライオンでもないですし」
「な、なんだか、だんだん物騒になっちまうような気が・・・」
「そうそう、思い出しました! わたくし、黒ヒョウの前でお扇子を出したのです」
「黒ヒョウ・・・でございますか?」
「ええ、黒ヒョウです、間違いありません。わたくし、そこでお扇子をつかって、そのあとバッグにもどしたつもりが、つい下に落としてしまったのかもしれないわ」
「そいじゃ、もう誰かが拾って、とうに持ってっちまいましてす」
「いいえ、わたくし柵から身を乗り出してましたから、下に落としたとすると檻の中かもしれません」
「・・・お、お、檻の中!?・・・でございますか?」
「ええ。ねえ、ばあや、黒ヒョウさんにはよろしくいって、すぐに取ってきておくれ」
「よっ、よろしくって・・・復員したカラス猫Click!の次は、つ、ついに黒ヒョウでございますか!?」
「いますぐに探してきておくれ、ばあや」
「・・・く、黒ヒョウさんは、食糧事情がまだ悪いから、ちょいと飢えっちまってるんじゃないかと」
「いますぐです」
「で、でも、お待ちください、お嬢様。すぐ演奏会が始まっちまいますし、ここは警察へとどけて・・・」
「そういえば、ねえ、ばあや。その昔、お庭の古井戸へ落ちて屋根裏で死んだメイドの貞子Click!から、年賀状がとどいててよ。きのう、お父様が笑いながら見せてくださったわ」
「・・・あっ、あれあれ、ま、まあまあ」
「5人めの子供が生まれたんですってね。今度、下落合へ遊びに来るそうです」
「そ、そうでございますか。おやまあ、貞子がねえ、それはようござんした。で、いつこの世にもどったって書いてございました?」
「・・・ねえ、ばあや、黒ヒョウさんの檻を、探してきておくれ。・・・いますぐです!」
明けましておめでとうございます。
今年も楽しいブログをよろしくお願いいたします。
今日のお嬢様は上野巡りなんですね。
音楽会の後はまさか寄席にまで足を運ばれるなんてことは
ないでしょうね(笑)。
下落合から上野までこのころだと都電でいらしたのでしょうか。
by エム (2006-01-05 11:21)
エムさん、明けましておめでとうございます。こちらこそ、本年もよろしくお願いいたします。
お嬢様が神田明神や湯島天神へお参り・・・というと少しイメージがズレますので、上野の権現(東照宮)へでもお参りしてから、精養軒に寄ったのかもしれませんね。ばあやが、権現近くの「う」へお嬢様を連れ込まなかったのが、ちょっと珍しいですが。(笑)
>下落合から上野までこのころだと都電でいらしたのでしょうか。
先日、日本橋三越にも乗っていった、運転手付きの戦前型フォードではないでしょうか。(^^; そろそろ部品がなくなりそうで、購入してから12~3年たちますから、かなりガタがきてるんじゃないかと思います。
by ChinchikoPapa (2006-01-05 12:09)
昔のつまらない記事にまで、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2011-05-23 13:34)
ポークソテーをどうしてお嬢様が選んだのか
とても興味深いです。
アイスクリームがバニラだったのかとか。
動物園に行くより、西洋菓子を選びたく
今は思ってらっしゃるのかなとか、カツレツ
では、「精養軒」というお店にふさわしくないのかな
など、とても想像力が刺激され楽しい内容ですね。
by namie (2013-01-21 04:11)
namieさん、コメントをありがとうございます。
きっと、いくつか前のお話以来、焼き立てのポークソテーのイメージがアタマの中から去らず、日本橋の洋食屋で食べそこなったのがよほど口惜しかったんじゃないかと思いますね。w
急に気が変わるお嬢様のことですから、上野からウグイスを探しに根岸のほうへ抜けて、ばあやに今度は蕎麦屋へでも引っ張りこまれてるんじゃないかと・・・。
by ChinchikoPapa (2013-01-21 12:20)