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水道橋(上水掛樋)と「水道橋」。 [気になる神田川]

 旧・下落合3~4丁目の旧「目白文化村」Click!界隈が、「中落合」や「中井2丁目」という得体のしれない地名(町名)に変更されようとした60年代半ば、地元の住民たちはほとんど動かなかったようだ。この地区の「有識者」数人が区長に面会して反対を表明したが、地名はすんなり「中落合」や「中井2丁目」へと変えられてしまった。旧・雑司(ヶ)谷町を「西池袋」という地名に変更しようとしたとき、豊島区は予想以上の抵抗を受けることになった。地名変更反対の署名が集められ、住民たちは区役所の事業への協力を拒否し、裁判は最高裁まで争われた。でも結局、役所に押し切られて馴染みのない「西池袋」という地名に変更された。現在でも、地名へのこだわりは旧・下落合3~4丁目、旧・雑司ヶ谷町5~6丁目でくすぶりつづけている。いかにも山手らしい、淑女紳士的かつ正面からの“正攻法”の反対運動だった。
 これが下町あたりだと、ガラリと様相が変わる。佃島の住民たちClick!へ、地名を佃から「三角」か「住江」へと変更することが伝えられると、怒った住民たちはまだるっこしい反対運動などしなかった。中央区役所の担当部課へ押しかけ、連日「説得」(つるし上げともいう)をつづけた。神田界隈もまったく同様だった。神田多町や神田司町が消されようとしたとき、1960~70年当時は、役所や議会への請願や陳情といった効果があるかどうか疑わしい方法はとらず、役人が机上でおこした気まぐれを実力で阻止した。おかげで、佃島はそのまま残り、神田多町や神田司町は1丁目は消滅したが、2丁目はかろうじて残った。
 
 さて、神田川に面した水道橋(すいどばし)の、三崎町界隈はどうだったか? 三崎町は神田の外れといっても、なんだカンダとその一部だ。安易に地名を変更しようとした、地元出身でもない役人たちを、住民たちは最初から相手にしなかった。めざすは千代田区長、ただひとりだったのだ。三崎町のケースが特異なのは、町会の幹部など高齢者たちが町名変更容認なのに、若い層が絶対反対を唱えたことだ。怒った若いもんたちは、旗を押し立てて区長宅を取り巻き、「説得」をつづけることになった。ほどなく、三崎町は存続することになり、すでに議会も承認していた地名変更は白紙撤回された。1100年代には、すでに神田山の山麓にあったといわれ、将軍(家光)も参拝した三崎稲荷(神社)が鎮座する三崎町は、おかげでいまもそのまま残っている。
 古来からつづく三崎稲荷は、神田山が日本橋埋め立てのために崩される以前から、ときどき遷座を繰り返していたようだ。現在の地へと移されたのは、江戸時代初期だといわれている。ちょうど水道橋の南詰めに当たるので、「橋守」稲荷のような感覚でとらえられがちだが、その創建は不明なほど古い。もともとは、「鋳成」信仰の聖域に建立された、古代のモニュメントだったのかもしれない。江戸期には、もっとも早くから開発された都市水道網としての、小石川上水と神田上水が千代田城内に入り込む水道口として、三崎稲荷の周辺はいわばカナメの役割をはたしていた。
 
 水道橋とは、もともと人が渡れる橋名のことではない。神田川を渡る、上水の流れる橋状の水道管(木樋の掛け橋)をそう呼んでいた。現在の水道橋と呼ばれる人橋は、江戸初期には「吉祥寺橋」と呼ばれていたようだ。吉祥寺が1657年(明暦3)の振袖火事で焼失して移転すると、すでに上水が流れていた水道橋(上水掛樋)にひっかけ、「水道橋」という通称で呼ばれるようになったらしい。
 上水道の開発は、江戸初期に家康が大久保藤五郎忠行に命じている。大久保忠行は江戸各地を視察したあと、井の頭を水源とする清冽な旧・平川(江戸初期は江戸川)を上水にすることを決め、井の頭から大洗堰のある関口(椿山荘下あたり)までを御留川(神田上水)にすることに決めた。工事は、3代将軍の家光時代までかかったが、大久保は功績を認められたのか「主水(もんと)」(「ど」と濁らない)という名前を幕府から与えられた。大久保主水がどれほど神田上水の工事Click!にかかわったのかは不明だが、主水すなわち「水奉行」のような役割りだったのだろう。彼の経歴は面白く、のちに「水奉行」から菓子司へと思いきった転向をしている。
 
  
 本所、神田、日本橋、京橋ノ四区及麹町区ノ一部ハ明治参拾参年六月参拾日限リ在来上水ノ給水ヲ廃止ス。但、廃止後掛ヶ樋ハ取毀(こぼ)チ、石縁桝ハ縁石ヲ掘取ノ上、埋立、他ハ現在ノ儘抛棄(ほうき)スルモノトス。(東京市議会決議より)
  
 水道橋(上水掛樋)を通って配水されていた神田上水の水道水は、1901年(明治34)にようやく役割を終え、掛樋は壊されてしまう。だが、東京市議会の決議にもあるように、江戸期から使われつづけてきたほとんどの水道管は、そのまま地下に放置された。東京のそこかしこの工事現場で、万年石樋・木樋を問わず、江戸の水道管がいまだに発掘されるのはそのせいだ。

■写真上:水道橋際にある三崎稲荷。東京の中でも、由来が不明なほど古い稲荷だ。
■写真中は、掛樋が架かっていたあたりの神田川。は、古くは吉祥寺橋と呼ばれた水道橋。
■図版の浮世絵は、広重が描いた幕末の上水掛樋『東都名所御茶之水之図』。の切絵図は、金鱗堂・尾張屋清七版『飯田町駿河台小川町絵図』(1863年・文久3)。
■写真下は、三崎稲荷あたりから眺めた江戸末期の水道橋周辺。手前が水道橋(吉祥寺橋)で、奥が上水掛樋(水道橋)。川沿いの辻塀は大旗本の屋敷で、左手前が石川伊予守総登(7千石)、奥の並びが石丸釥太郎(2千石)。は、明治初期と思われる御茶ノ水方向から見た水道橋(上水掛樋)。


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sig

こんにちは。
江戸時代の木樋の水道管を見たのは江戸東京博物館でしたでしょうか。当時の都市計画、特に上水の片鱗を知り、感嘆したものでした。
水道橋は元はその掛け橋だったとは、時代は変わるものですね。
by sig (2008-10-09 15:28) 

ChinchikoPapa

sigさん、コメントとnice!をありがとうございます。
船大工の技術をつかって、水漏れも起きない木組みというのはすごい技術ですよね。金属の水道管よのも長持ちするようですから、ちょっと想像を絶した堅牢さです。つい数年前でしたか、隅田川に残っていた最後の船大工会社が、店じまいをしてしまいました。戦後は、その技術を買われて海外からヨットやディンギーの注文が相次いだようですが、なんとも惜しい木工技術です。
by ChinchikoPapa (2008-10-09 18:19) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2009-10-20 14:08) 

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