中村彝のアトリエ再び。 [気になる下落合]
先日、中村彝(つね)アトリエClick!にお住まいのS様の奥様に、念願かなってアトリエ内を詳しく拝見させていただいた。建物の内部は、大正時代初期の香りが色濃く残る、佐伯祐三アトリエClick!と同様に素晴らしいものだった。アトリエに使われている漆喰壁、部材、ドアノブなどの金具、ガラスなどは、このアトリエが建てられた1916年(大正5)当時から、ほとんどそのままだ。
S様が住まわれた昭和初期(1929年・昭和4)、増築された玄関部や東側の部屋はあるものの、アトリエの主要部分はほとんど手つかずのまま保存されている。ぜひ、佐伯祐三アトリエ(1921年・大正10)とともに、より古い建築の中村彝アトリエも下落合で保存して欲しい。建物の貴重さからいえば、佐伯アトリエよりもさらに古い中村彝アトリエのほうが上まわる。そのまま保存されていたこと自体が、ほとんど奇跡に近いような存在だ。
これまでの、アトリエ保存に関する動きの経緯は、下落合での取材やS様から直接うかがったお話からすると、以下のような流れだ。
●1970年代
S様のご主人が、新宿区へ保存の意向を打診されるが、近くに区立の老人娯楽施設「下落合ことぶき館」があるとの理由で拒否される。このお話は、地元の何人もの方々からうかがった。中村彝アトリエと「ことぶき館」を同列・同次元で扱う、新宿区の認識のしかたがまったく意味不明だ。担当者は、中村彝の名前さえ知らなかった可能性がある。
●1980年代
再度、アトリエにお住まいのS様側より新宿区へ働きかける。さすがに、そのときは「中村彝って誰?」というような不見識な担当者はいなかったようだが、あいにく同様の保存案件で、林芙美子の自宅(1941年・昭和16築)とバッティングしてしまった。当時、舞台で『放浪記』や『浮雲』などが評判になっており、保存予算はすべて林芙美子邸につかわれてしまい、中村彝アトリエはまたしても取り残されてしまう。
また、1988年(昭和63)に建設され、茨城県立近代美術館の庭に再現された中村彝アトリエのレプリカに関連し、何度か近代美術館の館長をはじめ茨城県側から保存に関するの打診があったようだが、S様は新宿に中村彝たちが集った中村屋Click!が残るのと同様に、下落合で保存してこそ中村彝アトリエの意味があるとの想いから、そのまま現在にいたっている。最近、茨城県側から新宿区へ保存の問い合わせがあった記録もない。
●1990年代~
S様のお話から、おそらくは新宿中央図書館(新宿区教育委員会)にお勤めだったとみられる女性職員が、中村彝アトリエの貴重性に気づき、保存のための活動を始める。想像では、教育委員会を通じて新宿区へ保存の働きかけも行われたと思われるが、職員の定年退職とともに、保存の動きも立ち消えになってしまう。
このように、本来なら佐伯アトリエ以上に保存されてしかるべき中村彝アトリエが、その時々の担当者の不明や保存物件の競合による不運、保存活動に積極的だった職員の定年退職などによって、ことごとく流れてしまった状況がわかる。空襲でいやが応でも、数多くの貴重な建物が焼けてしまった東京だけれど、中村彝のアトリエは幸運にも、1945年(昭和20)5月25日の山手空襲Click!からも焼け残った。でも、戦後の保存活動におけるこの不運さはなんとしたものだろう。
旧・林泉園(明治期は落合遊園地)の北側にある尾根筋の道、中村彝アトリエの前の道は、戦後までみごとな桜並木が繁っていた。林泉園が埋め立てられ、集合住宅が建設されるとともに桜並木は惜しげもなく伐採されてしまった。たった1本の桜の巨木だけが、中村彝アトリエの斜向かいに当時の面影をいまに伝えている。このかろうじて残された桜の老木のように、築90年を迎えた中村彝アトリエのひとつぐらい、後世に伝えたっていいじゃないか。
中村彝アトリエのS様は、「建物を解体して集合住宅にする」などと言われているわけではない。亡くなったご主人の遺志を継がれて、なんとか下落合に保存してくれと訴求しているのだ。目白・下落合界隈に住む多くの人たちも、いや日本全国の絵画ファンの人たちも、同じ思いに違いない。
それでは、大正時代初期の空気が香る、中村彝アトリエの内部Click!を拝見してみよう。
■写真上:左は、中村彝アトリエの北面にある採光窓。1916年(大正5)当時そのままの状態だ。右は、茨城県立近代美術館に建てられたレプリカの内部。レプリカではなく、ほんもののアトリエ内部に立てるとは感慨無量だ。およそ86年前の秋、ここには中村彝と鶴田吾郎、そしてエロシェンコの3人の熱い息吹が漂っていたはずだ
■写真中上:左は、大きなサイズのキャンバスを運び出すための、アトリエからつづく搬出口。アトリエ建設当時は、応接室と呼ばれた部屋(のち居間兼寝室)へ作品を運び出すことができ、芝生の庭に面した扉から表へと搬出できた。右は、当時そのままのドアとドアノブ。中村彝自身も、このドアノブを回して部屋を行き来していたのだろう。
■写真中下:左は、居間から眺めた庭。右は、当初は芝生が拡がっていた庭からアトリエを望む。
■写真下:上2枚は、アトリエで創作中の中村彝。下左は、中央が中村彝でアトリエ前における記念撮影。この写真に写る庭に面した両開きのガラス戸が、上掲写真に写る茶色のドアだ。下右は、アトリエで死の床についた最晩年の中村彝。画家・鶴田吾郎Click!が最期を看取った。
こんな建物があったのですね!!
猫がいっぱいいるところの近くでしょうか?
私は無知なので中村彝さんのことはわかりませんが、是非とも残して欲しいですね。
ああ、それにしても素敵な建物です。。。
by MM (2006-02-03 22:02)
はい、ネコがたくさんいる公園の近くです。ついでに、最近はタヌキも頻繁に、アトリエ前の道で目撃されています。ネコのふりをして、エサをちゃっかりいただいてるんでしょうか。(笑)
この建物の紅い屋根を目標にして、陸軍の飛行機が飛んでいたなんて、驚きですよね。大正初期には、緑の中にポツンと屋根が見えて、とても目立ったアトリエだったんでしょう。
by ChinchikoPapa (2006-02-03 22:27)
パパさん
彝さんのアトリエは、震災後に傾いたらしいですが、その東側に3畳の小屋を作ったり、応急手当でくらしていたとかいいます。奇跡的に残ったこの建物を、是非この場所に残して欲しいです。
by 小道 (2006-02-03 23:31)
私は目白通り沿いに住んでいるのですが、このお宅がちょうど目の下に見えます。
こんなストーリーを持っている家だということを今日初めて知りました。
あらためて近くまで行って見てきましたが、たしかに古くはあっても由緒ありそうな洋館が建っていました。
鬱蒼と茂った貴重な緑とこの建物、なんとか保存・修復できればと願っています。
by かい (2006-02-04 15:30)
小道さん、コメントをありがとうございます。
そうでしたか、東側の部屋は関東大震災の影響から増築されたものなのですね。ということは、大正5~大正12のアトリエの姿と、大正13~昭和4、昭和4以降・・・というように、少しずつ姿を変えていたんですね。奥様は、東側の部屋の半分から向こうを、昭和4年に増築した・・・とお話されてましたので、それまでは中村彝の3畳の寝室(?)だったものか。この寝室も、家政婦部屋の東隣り(応接室の西隣り)だったとする本も、読んだことがあります。
でも、晩年は居間(応接室)へベッドを運んでしまいますから、物入れにでも使われていたのでしょうか。
by ChinchikoPapa (2006-02-04 21:40)
かいさん、コメントをありがとうございました。
中村彝アトリエが見えるところにお住まいなのが、とてもうらやましいです。(^^ 佐伯祐三アトリエのように、うまく保存できるといいですよね。下落合の強力な名所が、といいますか新宿区全体の名所が、またひとつ増えることになります。おそらく、中村彝アトリエは、佐伯祐三アトリエともども、散策にみえる方は全国規模になるんじゃないかと思います。
今度こそ、教育委員会や新宿区の担当部課がうまく動いてくれて、前向きにお話が進めばいいのですが・・・。
by ChinchikoPapa (2006-02-04 21:48)
papa様、奥様にお目にかかれてよかったですね。
柔らかい光の下 エロシェンコ、中村、吾郎がそこにいたんですね。
現在、描いた場所が現存していることは奇跡に近いこと、
どうにか後世に残したいですね。
新宿区は資金だけが貧しいのではなく、
福祉や文学は理解できて、絵画芸術には認識が極貧なのですね。
残念でたまらないですね。
by hedahwhig (2006-02-04 22:40)
「中村彝の散歩道」のあと、昨年4月に差し上げた手紙は、ご主人が学校の机の引き出しにしまわれた直後に、倒れられたようです。それを、奥様が昨年の暮れに学校で発見されたとか。M様やわたしが、何度かお電話を差し上げたときは、すでに入院中でらしたようですね。
>福祉や文学は理解できて、絵画芸術には認識が極貧なのですね。
そういえば、これだけ数多くの画家が新宿に住んでいたのに、新宿区には美術館がただのひとつもない・・・というのも、不思議といえば不思議なことです。先日、佐伯祐三展を開催した練馬区立美術館を思い出し、うらやましく思いました。
by ChinchikoPapa (2006-02-04 23:56)
生誕100年 中村彝・中原悌二郎と友人たちも、1989年に練馬区立美術館がやってくれました。練馬さんにはお世話になっていますね。
ところで相馬の地所って落合にありましたが、彝のアトリエは相馬関係で入手したのでなければ、何を思ってこの場所でくらすことにしたのかが、疑問なんです。経緯からいえば、相馬から離れたい心境ではないかなと思うんですけど。
by 小道 (2006-02-05 08:41)
相馬愛蔵を殺してやる・・・と、日本刀まで振りまわした(相馬黒光の回想)そうですから、中村屋の「相馬」は思い出したくなかったに違いないと思います。このあたりの経緯は、ボカして語られない本が多いのですが、中村彝を遠ざけたとはいえ、バックでは密かに相馬夫妻はアトリエ建設でも援助しつづけた・・・という「陰のパトロン」説もあったりしますね。(主に黒光の援助ということでしょうか?)
ただ、もうひとつリアルなのは、相馬俊子との新居のために、かなり以前から下落合の林泉園上に目をつけていて、特に中村屋の裏にあった桜の大木がお気に入りの俊子のために、尾根道のみごとな桜並木沿いに新居とアトリエ建設を計画して実行した・・・という説です。(『中村彝-運命の図像-』米倉守著/日動出版)
もしそうだとすると、その夢が破れたあとも変更せず、あえて同所にアトリエを建てて住みつづけたのはどうしてなんだ?・・・という疑問も湧きますけれど、そのあたりの心の機微がわかりません。目の前に、「相馬」違いですがすぐにも中村屋を思い出しそうな、大きな相馬子爵邸もあったのに・・・。健康状態が、すでに転居を許さない状況になっていたものか。
それとも、大好きだったらしい方位占いで、単に下落合が大吉とでも出つづけたのでしょうか。(笑)
by ChinchikoPapa (2006-02-05 23:19)
ぜひ残してほしいなあ
by (2006-02-08 11:34)
新宿区しだい・・・というところが、大きいですね。
うまく進んでくれるとよいのですが。
by ChinchikoPapa (2006-02-08 16:18)
*peace*さん、申し遅れました。
nice!をありがとうございました。
by ChinchikoPapa (2006-02-08 16:20)