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中村彝の絶筆『静物』の背後に。 [気になる下落合]

 中村彝の晩年の作品には、画室西側の壁面にうがたれたアーチ状の“飾り穴”がよく登場する。『カルピスの包み紙のある静物』(1923年・大正12)や、亡くなる年に岡崎キイをモデルにした『老母像』(1924年・大正13)などにも、くっきりと描かれている。
 この“飾り穴”があるのは、晩年に撮られた彝のポートレートから、西側壁面の中央やや左寄りだったと思われる。現在は、洋画家・鈴木誠氏のキャンバスが並んだ、ちょうど裏あたりに位置している。馬蹄形をした穴は、現在はふさがれているようだが、その跡はクッキリと残っているというお話だった。中村彝は、この“飾り穴”へときに水差しを置き、あるいはなにも置かずに背景として描いていた。静物や人物の背景に、単調にならないようアクセントや陰影をつけるには、もってこいの装飾だったのだろう。
 
 
 岡崎キイをモデルにした『老母像』には、懐かしいかたちのポットが置かれている。この水差しも、彝は繰り返し描いていたお気に入りの素材だったようだ。水差しは、実際に写真に撮られており、その写真Click!の中にも同じ水差しを描いた作品が写りこんでいる。写真で見ると、この“飾り穴”はかなり小さめに見えるけれど、彝が描いた絵を仔細に観ると、どうやら前面に置く静物によっては大きさを自在に描いていたようだ。
 
 また、亡くなる前年から没年にかけて制作された最後の自画像『髑髏を持てる自画像』(1923~24年)には、“飾り穴”は描かれていないが、アトリエの東壁面にあった鏡に映した彝の姿が捉えられている。画面の左側から差し込む光は、すなわち北側の採光窓からのものだ。自画像の背後には、画室西側の壁面が映っている。薄い生地のカーテンに覆われて見えないが、画面の右端、カーテンの裏側あたりに“飾り穴”があったはずだ。
 中村彝の絶筆は、1924年(大正13)の亡くなる直前に描かれた『静物』(未完)といわれている。やはり、同じフォルムのふたを外したポットに花が活けられ、背後にある壁の下部には腰高の壁を描く途中とみられる下塗りがなされ、花のうしろには“飾り穴”を描こうとしたような痕跡が残っている。『カルピスの包み紙のある静物』と、ほぼ同じ角度から『静物』を描こうとしたのではないか。だが、彝には“飾り穴”を描き切る力は、もはや残されていなかった。
 
 1916年(大正5)に建てられた中村彝のアトリエについて、2月末に新宿区議会で開かれた予算特別委の総括質疑で、根本二郎議員(無所属)が区側へ質問をぶつけてくれた。下落合が地元ではないのに、新宿区のさまざまな文化財や緑の保存へ、いつも積極的な活動をされる根本議員には頭が下がる。3月の初めには、区長と助役に直接面談いただき、中村彝関連の資料を一式お渡しいただいた。結果、おそらく教育委員会の文化財保護課による「記録調査」が始まりそうな気配だ。
 これで、中村彝アトリエの保存へ向けた動きは4度目。4度目の正直Click!となるかどうか、建て物の補修なども含めタイムリミットが迫る中、この機会を逃がすと新宿区での保存は、おそらくなくなるだろう。もはや、待ったなしの状況を迎えている。

■写真上:北の採光窓から外へのドア、そして西側の壁面。“飾り穴”があるのは棚の左手あたり。
■写真中上左上は『カルピスの包み紙のある静物』(1923年・大正12)で、右上は晩年に撮られた彝の背後に見える、西側壁面の“飾り穴”。左下は『老母像』(1924年・大正13)で、右下は同画に描かれたポットの実物写真。手前には、リンゴの載った皿が置かれているようだ。
■写真中下は『髑髏を持てる自画像』(1923~24年・大正12~13)、は画室の東壁面。
■写真下は絶筆『静物』(1924年・大正13)、は岡崎キイの部屋か寝室へと抜けるドア。


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玉井一匡

「髑髏を持てる自画像」の鏡は、上半分だけを見せて下半分は描いていない。背後のカーテンを描き込むことによって、そこが出口あるいはどこかへの入り口として「飾り穴」を変形させて大きくしたのではないでしょうか。窓、鏡、そしてネズミが出入りするようなこういう穴は、空間の広がりあるいは別の空間の存在を示唆するものでしょう。それらをひとつに重ね、どこかへワープする大きな「穴」を描くのは、自然な試みではないかと、思いますが。
by 玉井一匡 (2006-03-28 14:48) 

ChinchikoPapa

あっ、とても鋭いご指摘だと思います。1923~24年(大正12~13)の亡くなる年にかけ、中村彝は表現に大きな変化を見せますけれど、玉井さんの言われる視線はすごく新鮮です。この絵に対するそのような解説は、中村彝の関連書籍でいまだ目にしたことはありません。
確かに、「飾り穴」と鏡の上部とは同じフォルムで、昔からよく言われています鏡=異界への入口という概念から、「飾り穴」にもどこかそのような想念が込められていたものでしょうか・・・。鎌倉の谷(やつ)に展開する、「やぐら」(鎌倉武士の横穴墓)という言葉を思い出してしまいました。
絵を見つめていますと、手前の彝の姿が、椅子ごとスーッとうしろへ移動して、カーテンがさっと両側から閉められる、つまり舞台から退場していくような感覚にもとらわれてしまいます。
by ChinchikoPapa (2006-03-28 19:15) 

玉井一匡

そうなんですか、ありがとうございます。ぼくは、中村彝の絵はエロシェンコくらいしか知りませんでしたが、どれを見てもいい。この自画像もいろいろな意味で、不思議なところのある絵ですね。諦念というよりはむしろ、肺病やみの人らしからぬすゞやかな表情とぼくには感じられますが、それは何を伝えているのでしょう。世界とは何かが分かったときを描いたのかなと、ぼくは勝手に考えています。現実にそう思うことができたのか、それともそれを願って描いたのか。
by 玉井一匡 (2006-03-29 02:13) 

ChinchikoPapa

茨城の平磯海岸へ転地療養に出かけたあたりから、“悟り”といいますか諦観といいますか、病気を治そうというのではなく、病気をなんとかなだめすかして「やれるところまでやってみよう」・・・というような精神状態になったのではないかと、中村彝の友人たちへの手紙を読んでいると感じます。
せっかく桜が咲き乱れる林泉園にアトリエを造ったのに、桜の大好きな女性はやって来なかった、ともに歩もうとしていた、自分より頑強で精力的な中原悌二郎が先に逝ってしまった、描きたいテーマがたくさんあるのに、体力がまったく追いつかない・・・と、下落合での中村彝は、「諦めること」の連続だったのではないかと思います。
by ChinchikoPapa (2006-03-29 10:35) 

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