いまもあるんだ自身番。 [気になるエトセトラ]
下谷広小路近くを歩いていて、びっくりしてしまった。巨大な十手(じって)とともに、異様な建物が目についた。さしづめ、現代版の自身番か木戸番だ。どこか、うなぎ屋の見世先に似ていないだろうか? そう、江戸時代の辻番とうなぎ見世とは、建屋のデザインがとてもよく似ていて間違えられたのだ。
古川柳に、「辻番と おもふやうなぎを 焼いてゐる」なんてのも見える。まだ「う」の店が、お客を座敷へ上げて、ゆっくりとうな重やうな丼を食わせず、見世先で焼いてはその場に腰かけた、あるいは立ちっぱなしの客へ出していた江戸初期のころの風情。深川八幡の縁日には、いまだに露天のヤツメウナギ屋が出ているが、初期のころはあんな感じだったのだろう。ここでいう「辻番」とは、大名屋敷や武家屋敷の塀際に設けられた、中間や小者が詰める治安維持のための番所だ。武家の辻番に対して、町場では「自身番」や「木戸番」、江戸中期になると「橋番」などが登場した。また、特別に神田や玉川、小石川、千川などの上水(水道水)には、「水(道)番」というのもあった。橋番は、治安維持というよりも、橋のメンテナンス費貯蓄のため利用者から通行料を取り立てるのが主な役目だ。
さて、自身番は各町内ごとにあって、町名主や代理の差配など町役たちが常時詰める、いまの交番と同じような機能をもった番所だった。町奉行所の定廻(じょうまわり)同心や、その手下(てか=岡っ引き)が「変わりはないか?」と立ち寄ったりするのは、この自身番だ。町名主や差配には、隠居したりヒマをもてあましている年寄りが多いので、すわ事件だ!・・・といって駆け込んでも、それほど頼りにはならなかった。この自身番から、さらに奉行所や担当役人の役宅、あるいは町内の手下まで誰かを使いに走らせることになる。
木戸番というのは、江戸の町内や通りごとに設けられた、町木戸の開閉を行う木戸役が詰める番所だ。これも町人の自治にまかせられていて、夜(四ツ=午後10時ごろの感覚)になると江戸の町辻の木戸はいっせいに閉められてしまう。閉められた木戸を通行するには、つまり時間外に街中を出歩くには、あらかじめ奉行所や町名主の許可が必要だった。時代劇などで、盗賊や役人たちが自由自在に街中を駆けまわるシーンがあるけれど、基本的にあんなことはありえなかったのだ。繁華な町では、100m足らずの間隔で木戸が設置されていたので、一度閉められてしまうと朝(明け六ツ=午前6時ごろの感覚)まで開かず、不便なことこの上なかった。
江戸の町人たちは、建前的には同じ町内での往来か、勤め先と自宅との往復のみしか許されていなかった。飛鳥山の花見や下落合の蛍狩り、目黒の虫聞き、向島の雪見などの物見遊山をするにも、いちいち町役人を通じて奉行所の許可が必要だったのだ。木戸番は、町で雇われることが多かったが、その安い賃料だけでは食べていけず、木戸番小屋で駄菓子や履物などを売ったりしてたようだ。だから、治安維持のためとはいえ、なにか事件が起きたとしても木戸を閉めるぐらいで、取り立てて現在の交番のような機動的な役割を果たしていたわけではない。
一瞬、うなぎ屋と見まごうほどの造りの、下谷広小路近くにある番所だが、「上野六丁目防犯相談センター」と書いてあるので、さしずめ現代版の「自身番」なのだろう。ふだんは町会あるいは商店会の役員が詰めていて、ときどき定廻同心や手下ならぬ、臨時交番としての「警察官立寄所」となるのかもしれない。役割は「自身番」に近いが、建物前面の見世デザインは江戸期の「辻番」に近いといえるだろうか。それにしても、時計に大十手、提灯に暖簾という組み合わせが、なんともメチャクチャで面白い。
■写真:中御徒町(上野6丁目)あたり、現代版「自身番」。
■絵図:日本橋通り筋の切絵図で、赤い○印はすべて木戸番か自身番。金鱗堂・尾張屋清七版「日本橋南之絵図」(1863年/文久3)より。
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