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『野菜』の野菜は下落合野菜? [気になる下落合]

 佐伯祐三の絵に、『野菜』という作品がある。ザルの上に、収穫されて間もないとみられる根付きの蔬菜類が載っている。この作品が不思議なのは、描かれた年代が1925年(大正14)とされている点だ。この年は丸1年、佐伯はフランスのパリに滞在していて、日本にはいなかった時期に当たる。すると、ここに描かれた蔬菜類は、フランス産の野菜なのだろうか?
 ほぼ同時期に描かれたとみられる作品に、『鯖』(1926年・大正15)というのがある。こちらは翌年の制作だが、日本の湯飲み茶碗が添えられているところなど、同年の3月以降に下落合のアトリエで描かれたものだろう。わたしには、ザルに載せて描かれた『野菜』のほうも、下落合で描かれた気がしてならないのだ。それには、少しばかり理由がある。
 『野菜』を1925年(大正14)の作としているのは、1968年(昭和43)に講談社から出版された『佐伯祐三全画集』だ。この画集のベースとなっているひとつに、1937年(昭和12)に出された『山本發次郎氏蒐蔵/佐伯祐三画集』(座右宝刊行会)がある。でも、この画集には、『野菜』が1925年(大正14)作品という記載はない。あとにも先にも、『野菜』が画集に収められたのはこの2冊だけだし、戦後に展覧会へ出品されたという記録も残っていない。講談社の『全画集』で、初めて「1925年」と規定されたものだろう。ちなみに『山本發次郎氏蒐蔵』では、順番からいえば佐伯がフランスから帰国してから描いた一連の作品の中に、『野菜』は位置づけられ掲載されている。
 
 すでに失われたか、あるいは個人蔵と思われるので、もはや実物の『野菜』を観る機会はないが、その描写のニュアンスやタッチが、フランス滞在中に描かれた佐伯の静物画とは、多少異なるような気がする。時間的にはもう少しあと、1926年(大正15)3月に帰国してから、すさまじいエネルギーで描き継がれた『下落合風景』シリーズClick!の連作へと突入するまでの間に、下落合のアトリエで描かれたものではないか。それとも、キャンバスの裏側に、はっきりと「1925」という書き込みでもあったのだろうか? 確かめるすべはない。
 大正期から昭和初期にかけ、下落合における近郊野菜の栽培はピークを迎える。中でも、下落合大根Click!は名産品として全国的に知られており、それから作られた沢庵漬けは米国にまで輸出されていた。下落合大根の人気や需要に供給が追いつかず、原材料が足りなくなると練馬から大根を取り寄せては、“下落合大根”の沢庵漬けとして加工していたようだ。いまなら、さしずめ原材料表記の詐称となるだろう。
 『東京府豊多摩郡誌』には、大正期の落合における農業生産の統計記録が掲載されている。


 下落合で採れたばかりのみずみずしい野菜を、佐伯祐三もずいぶん食べたに違いない。これらの野菜は、収穫後に諏訪谷の“洗い場”Click!などの湧水池で洗浄され、目白通り沿いの青物屋の店先に並んだのだろう。あるいは、周囲に農家が多かった佐伯アトリエには、近所の農婦が直接売りに来ていたのかもしれない。1926年(大正15)当時、佐伯アトリエのすぐ北側には農家があり、東側には養鶏場があった。
 現在ではひっそりとたたずむ佐伯アトリエClick!だけれど、上掲の地図を見れば、佐伯祐三は毎朝「コケコッコー!」の声とともに目ざめていたのは想像にかたくない。1980年代でさえ、下落合では午前3時をまわると、クルマのライトに反応したニワトリの鳴き声が聞こえていた。わたしは、それでパソコンの電源を切って眠りについていたのだが・・・。

■写真上:佐伯祐三『野菜』。1925年(大正14)作となっているが、帰国後の翌年作ではないか。
■写真下は、下落合の野菜が育つ畑地。冬場には、大根や白菜、キャベツ、長ネギなどが育っていたが、いまは種まきの季節。は、1926年(大正15)作の『鯖』。
■地図:大正末期の市街図。目白通りを中心に描かれているので、北が下になっている。佐伯が好んで描いた「八島」さんのお宅Click!が、「矢島」と誤記されている。


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ChinchikoPapa

ものたがひさん、ようこそ。(^^
大正期、下落合にも牛はたくさんいたようです。食肉用や乳牛としてではなく、主に荷車の運搬用として飼われていたみたいですね。明治~大正期のさまざまな記録を見ますと、野菜や肥えを運ぶ牛車の記述が出てきます。
大正15年~昭和5年の間に、下落合界隈には4つの市場が形成されますけれど、これらの市場へ農産物を運んでいたのも、牛車ではないかと思います。きっと、当時の清戸道(目白通り)は牛糞だらけだったんじゃないかと・・・。(笑) それでも、いまの大量の排ガスよりはマシだったろうと想像します。
佐伯の『下落合風景』の中に、牛がいたのですか!?
by ChinchikoPapa (2006-04-20 12:35) 

ChinchikoPapa

牛車(ぎっしゃ)と書くと奥ゆかしいような感じもしますけれど、正確には牛荷車ですね。昭和初期には、農家で自動車やトラックはまず持っていなかったでしょうから、荷台に野菜を満載した牛荷車が活躍したんだと思います。
さっそく別コメントを拝見します!
by ChinchikoPapa (2006-04-20 16:43) 

谷間のユリ

父から聞いた安政生まれの曾祖母の話によると、そのころは牛車ではなく大八車で野菜を積んで、小石川を抜け神田の青果市場に運んでいたそうです。大根、葉もの、胡瓜、瓜といった近郊野菜が主だったのでしょう。昔の人はタフですね。
田無や保谷から運んでくるのはさらに大変だったみたいです。
by 谷間のユリ (2007-02-09 19:21) 

ChinchikoPapa

大八車では、たいへんですよね。牛車や馬車でも、ときどき雨上がりの道路のぬかるみにはまって大変だった・・・という記録を読んだことがありますので、大八車だと重心が低いから、野菜を満載した荷車を引き出すのに並たいていの苦労ではなかったと思います。
中村彝が病院へ通うとき、あるいは佐伯米子が外出するときは、俥(じんりき)を頼んだといいますが、これも大正当時の道だとたいへんそうです。佐伯祐三は、奥さんの乗った俥のあとを必死で追いかけていた・・・という記録が残っていますが(笑)、きっとぬかるみにはまったこともあったでしょうね。
by ChinchikoPapa (2007-02-10 11:14) 

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