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彝と八一と落合の自然。 [気になる下落合]

 
 いよいよ来週から、新宿区教育委員会による中村彝アトリエの「記録調査」が開始される。これで、うまく保存の方向へと動いてくれればいいのだけれど・・・。アトリエの所有者S様も、たいへん喜ばれているご様子だ。ちょうど、ご主人が亡くなられた1周忌に調査が始まることになる。同じく、ちょうど1年前の春、そのご主人宛てにアトリエについての手紙を書いていたわたしも感慨無量だ。うれしかったので、再び中村彝テーマの記事をアップしちゃおう。文化財保護ご担当のS様、改めてよろしくお願い申し上げます。<(_ _)>
  中村彝が今村繁三らの援助で、下落合へアトリエを建てて住みはじめた1916年(大正5)ごろ、周囲の風景は東京の郊外・・・というよりも、ひとことでいえば田舎だった。この感覚は、東京都庁が移ってきて「新都心」となった現在ではわかりにくいが、90年前の下落合(旧・下落合1~4丁目)は、そこらじゅうに田畑と雑木林が拡がり、藁葺き屋根の農家が点在する田園風景だった。堤康次郎の箱根土地による目白文化村の開発Click!も、ようやく土地買収が始まったばかりで、いまだ影もかたちもなかった。
 中村彝の作品(素描)に、『落合風景』と名づけられた1枚が残っている。それを見ると、下落合のバッケ下と思われるところ、いわゆる下落合の“本村”あたりの情景が描かれている。背景に目白崖線が見え、手前には藁葺き農家が数軒描かれている。明治末あるいは大正期の地図から類推すると、現在の聖母坂下の十三間通り(新目白通り)あたりから東北方向を眺めたように思われる。まだ、中村彝の病状が悪化せず、下落合をあちこち散歩できた時代なので、アトリエ完成後の間もない1916~1917年(大正5~6)ごろの作品だろう。佐伯祐三の『下落合風景』とは、まったく異なる下落合の姿が、中村彝の瞳には映っていたのだ。
  
 野の鳥の庭の小笹に通ひ来て あさる足音のかそけくもあるか
 茂り立つ樫の木の間の青空を 流るゝくものやむときもなし
 武蔵野の草にとばしる村雨の いやしくしくに募るゝ秋かな
 入日さす畑のくろに豆植うと 土おしならす手のひらの音
  
 これらの短歌は、同時期に下落合の霞坂沿い、「秋艸堂」に住んでいた会津八一の『村荘雑事』に収められた作品だ。当時、下落合は落合町下落合ではなく、いまだ豊多摩郡落合村下落合だった。会津も、別にあえて鄙びを気取ったわけではなく、そのまま自然に「村荘」と表現している。一面の畑では、麦の収穫が終わると、つづいて下落合大根Click!が植えられた。クルマなどめったに走らず、たまに道を通るのは肥え車か、停車場へと向かう馬車ばかりというような風情だった。下落合野菜の“洗い場”Click!上に住んでいた、洋画家・曾宮一念の紹介で中村彝と会津八一はたった一度だけ、関東大震災直後の1923年(大正12)12月1日に会っている。場所は、林泉園に面した中村彝のアトリエClick!だった。

 会津はお土産に、大英博物館発刊の『パルテノン写真集』を持ってきた。のちに郵送で、国東半島は臼杵の満月寺石仏群の写真と、自作『南京新唱』が贈られている。それまで会津は、何度も展覧会へ足を運び、『田中館博士の肖像』や『エロシェンコ氏の像』を観てたいそう気に入っており、ふたりの邂逅は初めてにもかかわらず、かなり打ち解けた雰囲気だったようだ。そのときの印象を、会津はのちにこう書いている。
  
 白い蒲団とシーツの中から、黒い髪の伸びた、血色のいい、元気一ぱいな顔が、驚くほど逞しい右の腕とともに出ていた。黒い二つの瞳が私を迎えた。長年の病苦や孤独と闘い抜いて来たというような、寂しさも、わびしさも、この部屋の何所にも無かった。まるで花畑から折って来たばかりの向日葵の大きな一輪を、そこへ投げ出したように鮮やかに輝くこの人の風貌は、まず以って大きな意外であった。(中略)いろいろのことを話している間に、この人のあの麗かな、晴れやかな言葉のうちに、自然や人生の姿も、芸術の魂も、あの根強い人格の匂いとともに刻々に私に迫るのを覚えた。                                      
                                       (鈴木良三『中村彝の周辺』より)
  
 下落合の豊かな自然が横溢する風景の中で、中村彝と秋艸道人・会津八一Click!は、ともに美意識を鋭く磨きつづけていた。

 親父の世代では、千代田城の西北へ引っ越すというと、 (御城)下町Click!を離れて田舎に引っ込む=引退するというような意識があった。ちょうど、江戸期に本所や深川、亀戸のほうへ隠居宅あるいは下屋敷を設けて引退する・・・というような感覚に近いだろうか。会津八一は、まさに誰にも邪魔されず静かに研究へと打ち込める鄙びた環境を、下落合へ求めたのだろう。
 いくらターミナルとして、新宿駅周辺が大きく開け始めていたとはいえ、戦後の日本橋区(1947年に中央区)でさえ、いまだそのような意識が色濃く残っていた。東京オリンピックのころでさえ、親父の知り合いが訪ねてきて引っ越しの話をするとき、まるで“都落ち”でもするような悄然とした表情で話していたのを憶えている。いまからは、想像するのも難しい感覚だ。
 わたしの世代では、かろうじて野生のタヌキが棲息する自然が残る、緑ゆたかな“新山手”へ引っ越すというのは、むしろ憧憬に近いものを感じていた。わずか50年ほどの間で、東京に住む人々の意識は大きくさま変わりしたようだが、下落合の風景自体もまた、50年前には考えられないような、いや、わたしの学生時代と比べてさえも、想像もできないほど大きく変貌している。

■写真上は、中村彝『落合風景』。1916~7年(大正5~6)ごろ、崖線下から東北方向を眺めた景色。は、下落合の旧・本村があったあたり、聖母坂下から東北方向の崖線の眺め。
●地図:1918年(大正7)の「早稲田・新井地形図」。いまだ、「本村」の字(あざな)が生きている。
■写真下:霞坂に面して建っていた、秋艸道人・会津八一の「秋艸堂」全景。『新宿おちあい-歩く、見る、知る-』(新宿区落合第一特別出張所刊)より。


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