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お嬢様、みくびらないでくださいまし。 [気になる下落合]

 「まあ、ばあや、ご覧!」
 「ハァ、ハァハァ・・・」
 「中村彝(つね)様のアトリエClick!の屋根に、黒猫がいてよ」
 「・・・ハァハァ、ヒィ~ヒィ~」
 「まあ、ばあや、お髪(ぐし)が乱れて、腰まで曲がって、どうしたのです?」
 「ヒャ~ヒャ~、ハァハァ・・・」
 「あら、お口がきけないの、ばあや?」
 「ハァハァ、だだ、だってお嬢様、胸突坂から七曲坂まで、ずっとハァハァ、ずっと坂道を歩きっぱなしClick!で、ハァハァ、ございますよう!」
 「あら、ほんの少し、目白と下落合をお散歩をしただけじゃないこと」
 「ばあやにとっては、ハァハァ、生き地獄で、ございます!」
 「まあ、ばあやは、すぐ地獄だの極楽だのと、大げさなことを言うのですから」
 「ここ、こんな、ハァハァ、山ばっかんとこ、人の住むとこじゃ、ございませんですよ、お嬢様!」
 「あら、だってここは、日本橋や銀座じゃなくて山手(やまのて)ですもの。しかたがなくてよ」
 「ハァハァ、ま、まさか、あのカラス猫を、捕まえろClick!なんてえ、そそ、そんな大それた、殺生なことは、ハァハァ、言われませんですよねえ、お嬢様」
 「・・・あら、ばあや、ご覧。あの黒猫、なんとなくひもじそうだわ」
 「お、お、おやめください、お嬢様! ハァハァ、あんな野良公、うっちゃっといてくださいまし!」
 「ねえ、ばあや、少しは懲りたのかしら?」
 「もう、懲りごりで、ハァハァ、ございますよ、お嬢様! ハァ」
 「では、わたくしの行状を、いちいちお父様やお母様に言いつけるのは、やめておくれ」
 「は、はい、もう、ハァハァ、なんでも、言うことをききますから、ど、どうぞお嬢様、ご勘弁を!」
 「そう、それでいいのです、ばあや。間諜みたいなマネは、もうやめておくれ」
 「ヒ~ヒ~、は、はいはい、わかりましてす、お嬢様」
 「お返事はひとつです、ばあや」
 「はい、ヒ~」
 「でも、ほんとうに彝様のお宅が、空襲で焼けずによかったこと。この前、お父様にうかがったら、大正5年の夏に建てられたのだそうよ」
 「ハァハァ、ですけど、こんなとこに、ツネさんが、住んでたんですかねえ」
 「まあ、ばあや。・・・彝様を、知っているの?」
 「あれあれ、お嬢様、みくびらないでくださしまし。ハァ、あたくしも、それぐらいはよく存じてます」
 「・・・まあ、意外なこと」
 「下町では、ツネさんは、有名でございますよ。ハァ」
 「では、ばあや、彝様のエロシェンコClick!も観たことがおあり?」
 「ツネさんが、エロだったかどうかまでは存じませんけど、歌はよく存じてます」
 「まあ、彝様の歌があるの!? ねえ、どのような歌なのです?」
 「あれまあ、お嬢様、ご存じないのでございますか?」
 「わたくし、ぜんぜん知りませんでした」
 「ちまたでは、とうから有名でございますよ、お嬢様」
 「ねえ、ばあや、ちょっと唄ってみておくれ」

 「♪や~ると思え~ば、どこま~でやるさ~、そ~れ~が男の、魂~じゃないか~・・・」
 「・・・まあ、もともと軍人をめざされていた彝様らしくて、男らしい歌ですこと。この林泉園の桜のように、とてもいさぎよくていらっしゃいます。そう、木口一等兵の喇叭(らっぱ)のように、彝様は亡くなるまで絵筆を決して離されませんでした。それが、芸術家の無限感と魂なのね」
 「♪あ~んな女~に、未練~はないが~、な~ぜか涙が、流れ~てやまぬ~・・・」
 「そう、そうなのよ、ばあや。中村屋の俊子様と彝様とのことは、わたくしもお話をうかがって、涙が流れて止まりませんでした」
 「♪男心~は、男~でなけりゃ~、わ~かるものか~と、諦~めた~・・・」
 「わたくし、彝様はよく、俊子様を諦められたと思います。でも、ばあや、なぜ俊子様を、思いきって下落合にお連れにならなかったのかしら?」
 「そりゃ、お嬢様、ツネさんにはいろいろと、果たさなきゃならない義理てえもんがありましてす」
 「そう、彝様は、とても義理がたいお方だったと、どこかで読んだ憶えがあります」
 「そうでございましょうとも、お嬢様」
 「きめ細かなお心配りに、周囲のみなさまがよけいに涙されたといいます」
 「そりゃそうでございますとも、お嬢様。ツネさんに救われた人は、ひとりふたりじゃございません」
 「あれ、・・・ほら、お名前は忘れてしまいましたけれど、彝様のご親友で、ここでお仕事をされた方がいらしてよ。・・・ええと、お名前を失念してしまったけれど」
 「そりゃもう、飛車角でございましょう? お嬢様」
 「ヒ、ヒシャカク? ・・・そのようなお名前では、なかったような気がするわ、ばあや」
 「いえいえ、ツネさんの盟友てえことなら、もちろん飛車角でございますよ、お嬢様」
 「あの、なんていったかしら、ニン、・・・ニンチァーClick!だったかしら」
 「いえいえ、お嬢様、人情でございますよ」
 「いつも忘れてしまうのだけれど、その外国のお方とひどい喧嘩をなされてまで、ここでお仕事をされたとうかがいました」
 「もうツネさんと飛車角てえことなら、義理と人情でございます。そりゃ、喧嘩のひとつやふたつ、いろいろ出入りだって、たくさんあったんでございましょうよ」
 「いろいろな方々が、ここにお出入りClick!されていたそうです」
 「やっぱしねえ、そんなこったろうと思いましてす。・・・ですけど、こんなところで商売してたなんて、あたしゃ初耳でございますよ。・・・近所の旦那衆集めて、賭場でも開帳してたもんかしらねえ」
 「そうだわ! ねえ、ばあや、その彝様の歌を、わたくしにも教えておくれ」
 「じゃあ、お嬢様、後生ですから、ねえ、少し休ましてくださいまし」
 「それでは、そこの林泉園のお池で、少し休んでまいりましょう」
 「息がすっかり上がっちまって、さて、ちゃんと唄えるかしらねえ?」
 「あら、ばあや、ごめんあそばせ。わたくしもいい歳をして、少し大人気がなかったわ」
 「ほんとでございますよ、お嬢様!」
 「ばあや、こうして謝りますから、ぜひ彝様の歌を教えておくれ」
 「まあ、こんな歌でよろしけりゃ、いくらでもお教えしましてす」
 「今度、目白駅近くの画廊で、学習院の恩師と同窓生のみなさまが集まる、東郷青児様をお招きした絵画サロンがあるのです。そこで、彝様の歌をぜひご披露したいわ。先生をはじめ、みなさまご存じないでしょうから、きっと驚かれるに決まっています」
 「そりゃ、お嬢様、みなさん、きっと驚かれるに決まってますとも」
 「ねえ、ばあや、林泉園の坂は急だから、足元にお気をつけなさい」
 「あれまあ、お嬢様、急にやさしくおなりで・・・」
 「ばあや、早く教えておくれ。ねえ、あそこのベンチへ座りましょう」
 「とうとう連載も、今年で終わっちまうそうでございますよ、お嬢様」
 「ところで、ばあや、その歌はどなたがお唄いなの?」
 「・・・村田だぁ~」
 「な、なんだか、そのお名前、少し頭痛がしそうです。・・・ここへお座り、ばあや」
 「・・・♪お~れも生きた~や、仁吉の~ように、義理~と人情のこの世界~」
 「まあ、ほんのりと哀愁をおびた、すてきな唱歌ですこと。ねえ、最初から教えておくれ、ばあや」

「人生劇場」作詞:佐藤惣之助/作曲:古賀政男(1938年・昭和13)。当初は、楠木繁夫が唄って大ヒットした。尾崎士郎の大河小説『人生劇場』は、早大生の青成瓢吉を主人公に1933年(昭和8)より始まり、戦争を挟んで1951年(昭和26)に連載を終えている。そこに登場する吉良常(仁吉)と飛車角は、義理と人情に生きた侠客の典型キャラクター。


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ChinchikoPapa

実は、絵葉書のお話が、きょうの打ち合わせでも出ました。
個人のお宅はちょっと無理があるかと思いますので、歴史的な建造物なら交渉すれば絵葉書にできるかな・・・という感触ですね。個人のお宅でも、「うちは絵葉書にしてもいいよ」と言ってくださるお宅もあると思うのですが、いまからまたお邪魔をしてご説明をして・・・という時間ができそうもありません。(汗)
歴史的建造物を、ちょうど美術館の絵画葉書のように会場で販売できれば、けっこう人気が出て喜ばれる方たちも多いでしょうし、大赤字の会場費や制作費を少しでも回収できるかな・・・とか。(^^; ただ、時間がないので、実際にどこまでできるか見えません。
by ChinchikoPapa (2006-05-14 00:23) 

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