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佐伯の諏訪谷は急速に宅地化された。 [気になる下落合]

 
 「セメントの塀」Click!ほどではないけれど、この『下落合風景』もなんとなく既視感がある。手前に、2階屋の屋根上ほどの崖線があり、佐伯祐三はその上から谷間を見下ろして描いている。正面にも、同じぐらいの崖線があって丘状になっている。右下には、この谷間へと通うらしい路地があり、道の右手には大きな樹木が繁っているのが見える。この道の手前突き当りには、夕暮れが近づいて点灯された街路灯があるようだ。

 現在の下落合をよく歩かれている方なら、すでにお気づきだと思う。右隅に見える大木は、空襲でも焼けずに残ったが、その後、雷が落ちたか枯死したかで80年代に伐り倒されてしまった。この画角外の左手、つまり西側には、“T”字型のまるで半島のような丘があり、その丘の向こう側(西側)にも、もうひとつの谷戸が口を開けている。1931年(昭和6)に、左手の画角外に突き出た丘を崩して、国際聖母病院が建設されると同時に、聖母坂(補助45号線)が開通している。聖母病院の石垣の高さを見ると、当時の丘だった様子がいまでもおぼろげながらうかがえる。
 右手の画角外には、久七坂から北へと向かう尾根筋の道がつづいており、崖淵に建立された大六天の脇からこの谷間を南へ向けて下りることができる。佐伯祐三は、久七坂筋の尾根道から西へと入りこんで、この谷間を北北西に向いて描いたことになる。すなわち、この『下落合風景』は1926年(大正15)当時の諏訪谷全景だ。描かれていないけれど、右手画角外には大六天の社(やしろ)があり、左手画角外の手前には“洗い場”があったはずだ。
 
 最初に、この『下落合風景』を観たとき、現在の聖母坂から西側(旧・下落合3~4丁目)の風景でないことを直感した。現在の中落合周辺にも、この地形と似たような谷間はあるけれど、これほど家々が密集している谷間は、佐伯の死後に撮られた1936年(昭和11)の空中写真でさえ皆無だ。聖母坂から東側(旧・下落合1~2丁目)でも、このような地形と家々が密集した谷間は稀であり、たった1箇所しか存在しない。しかも、佐伯のアトリエから徒歩2~3分、いまは聖母坂に分断されているけれど、わずか200mほど直近の谷間だ。
 不動谷の谷戸が突き当たる、崖線上にアトリエをかまえた佐伯祐三は、小さくてなだらかな丘をひとつ越えて、諏訪谷へとやってきた。「セメントの塀」のある道に入り曾宮一念邸を左手に、「浅川ヘイ」Click!の浅川邸を斜め左手に見て、大六天の角を諏訪谷へは下りずに、久七坂筋の道を右折(南折)した。諏訪谷の谷戸の突き当たり、つまり東側の崖線上をしばらく南へ行くと、谷の南側の崖線上に、つまり西へ右折する小路だか空地を見つけた。当時、南の崖線上には、まだ家が建ち並んではいなかったのだろう。1936年(昭和11)の空中写真では、そこにもすでに住宅が建設されてしまった様子が写っている。もう少し描くのが遅ければ、このような描画ポイントは得られなかったかもしれない。
 その空地だか小路へ入りこんだ佐伯はイーゼルを据え、夕暮れの迫る中、キャンバスをほぼ北に向けておもむろに描きはじめたのだ。『下落合風景』シリーズを描き慣れた彼は、代表的な土の色・家屋の色・樹木の色・屋根の色・空の色など、あらかじめ配合しておいた「下落合」色の絵の具が、すでにパレットへ用意され並んでいたに違いない。だから、テレピン油を片手に驚くほどのスピードで、キャンバスを埋めていけたのだと思う。
 
 佐伯は、同じポイントからの絵を、年が明けた1927年(昭和2)の雪が降った日にも描いている。翌年に描かれた作品は、いまでも2点観ることができるのだけれど、ここで面白いのが、家々の数が急に増えているところだ。谷下の手前にも、昨年まではなかった家の屋根が増え、正面の丘上にも新たな住宅が建設されているように見える。1926~27年(大正15~昭和2)にかけ、諏訪谷は住宅の建設ラッシュではなかったか? また、同日とみられるこの2枚の雪景色でも、微妙に家々の配置やかたちが異なっている。描く場所を多少ずらしたり変えたりしただけでは、このような変化は起きないだろうから、きっと佐伯祐三の“気分”や“美意識”がそうさせたのかもしれない。
 これらの作品の中で、1926年(大正15)現在でわかるお宅は、雪景色の作品の手前右手に描かれた村田邸、雪のない冒頭の作品中央に描かれた2階建ての三谷邸、同じく雪なしの景色で左の丘上に突き出た2階建ての佐藤邸、そして佐藤邸の左隣りの電柱の下にチラリと見えている平屋が森邸だ。「森?のトナリ」は、ひょっとすると諏訪谷の崖線上に建っていた佐藤邸かもしれない。
 いま、同じ描画ポイントから諏訪谷の全景を撮影しようとしても、佐伯がイーゼルを据えた手前の崖線上には、びっしりと住宅が建っていて入ることができない。だから、いろいろな角度から諏訪谷を撮影してみた。どうやら、「八島さん前通り」Click!とともに、この諏訪谷も佐伯のお気に入りポイントだったようだ。
 
② 
④ 

 では、『下落合風景』の描画ポイントClick!に、諏訪谷の全景位置を加えてみよう。

■写真上は、佐伯祐三『下落合風景』(1926年・大正15)。は、描画ポイントと思われる位置からの撮影。南の崖線上には家々が建ち並んでいて、諏訪谷の全景はとうに見ることができない。
■写真中上は、1936年(昭和11)の空中写真。この時点で、すでに佐伯の描画ポイントと思われる崖線上には住宅が建ち並んでいる。は、1947年(昭和22)の写真。空襲で諏訪谷の家々はほとんどが焼失したが、大樹が焼け残っているのがはっきりと見える。また、右上の浅川邸や、「セメントの塀」に登場する久七坂筋の家々は、かろうじて延焼をまぬがれている。
■写真中下:2点とも佐伯祐三『下落合風景』(1927年・昭和2)。同じ描画ポイントから、諏訪谷全景の雪景色を描いたとみられる。冒頭の作品に比べ、家々が増えているのがわかる。
■写真下地図は、1918年(大正7)に作成された「早稲田・新井地形図」で、不動谷と諏訪谷付近をクローズアップしたもの。双方の谷のかたちがよくわかる。写真①~⑤は、現在の諏訪谷の様子。写真①には、80年代に伐られてしまった大樹の跡。ついこの間、90年代まで大きな伐り株が残っていた。写真②③には、丘上にある聖母病院が見える。また、写真③の左端には、佐伯がイーゼルを据えたとみられる、南側の崖線の一部が見えている。


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ものたがひ

時間軸を含めて地元を知悉している方の考察です!聖母坂から一歩入った所に、このような地形があったとは。1929年の1万分の1地図で既にこのあたりは家が建て込んでいますから、1926〜1927年の建設ラッシュとの御判断は、ますます信憑性があると思います。
でも、「同日とみられるこの2枚の雪景色」であるかは、保留にしたいです。
ここで、東京管区お天気調べ・1926/27の雪の部、いきます。
1926年12月15日 13.4(降水量、単位mm。降雪量への換算は10倍程度が目安だそうなので、簡単にcmにした雪の量と一応しましょうか)
    12月19日 1.1
1927年 2月5日  9.0
     2月22日 21.2
     2月25日 3.6
     2月26日 5.2
     3月4日  1.4
     3月5日  4.0
     3月13日 35.2
     3月20日 46.1
            以上。
大雪が何度も降っており、雪景色を描く機会は複数回あったと考えられるのです。
それから、「森?さんのトナリ」ですが、みずゑ619号の不明の文字と佐伯の山田新一宛の葉書の文字を比較し、「森たさんのトナリ」と書いてあると私は判読しました。森田(?)さんであるなら、該当する家が幾つもありそうです。ご検討頂けると嬉しいです。
by ものたがひ (2006-05-08 00:32) 

ChinchikoPapa

昔はよく雪が降っていたとはいえ、こんなに降っていたとは驚きです。描写された雪景色から判断しますと、2/22あたりがいちばん怪しいでしょうか? 雪景色のうち、1枚は晴れ上がっているようですので、翌日ないしは翌々日あたりが晴天の日・・・と考えることもできそうですね。
「森田さん」ちは、どこかで見たような記憶がありますので、今度から事情明細図を気をつけて観察してみます。(^^
by ChinchikoPapa (2006-05-08 02:09) 

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