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第一文化村アルバム。 [気になる下落合]

 この写真()は、第一文化村のたいへん貴重なショットだ。いや、ペコちゃんのようなかわいいほっぺの女の子が貴重・・・なのではない。戦後も間もないころに撮影されたもので、第一文化村の生活協同組合である同志会Click!があった地点より、少し西寄りのポイントからメインストリートである“弁天通り”をさらに西へ向けて撮影されたもの。1945年(昭和20)4月13日夜半の空襲Click!で、右手に見える日本家屋の先まで炎上しているが、この道の突き当たりに見える樹木の繁ったあたりは焼けておらず、いまでも大正期に建築された美しいお宅を鑑賞することができる。また、この道の左側も焼けておらず、70年代までは美しい屋敷がずいぶん残っていた。正面を道なりに右へとたどると、やがて角に小野田製油所のある目白通りへと抜けることができる。
その後、第一文化村と第二文化村は4月13日夜半と、5月25日夜半の二度にわたる空襲により延焼していることが新たに判明Click!した。
 佐伯祐三の『下落合風景』Click!は、第二・第三文化村をほんのちょっとかすめるばかりで、かんじんの目白文化村の中核である第一文化村が、「いつまで待っても、ちっとも出てきゃしないじゃないのさ。ちょいと冗談はよしとくれな」(なぜか下町言葉)・・・と、ジリジリされていた第一文化村にお住まいのみなさま、このアルバムでご不満を忘れ、しばしお楽しみいただきたい。佐伯は、大きな華族の西洋館や洋風住宅が建ち並んでいた、現在の下落合(旧・下落合1~2丁目)の中や目白文化村(旧・下落合3~4丁目)の中枢部は、どうやら描いていないようなのだ。それは、文化村の内部に入りこむと、その怪しい挙動や風体からすぐに警察へ通報されてしまうから・・・ではもちろんなく(^^;、そのような風景は画材として彼の興味を惹かず、あえて避けていたようなフシさえ感じられる。
 まず、この写真の道路に、電柱が1本も見あたらない点に注目していただきたい。第一文化村は、本格的な共同溝が設置された日本でほぼ初めての大規模な住宅街で、上下水道とともに電源ケーブルも地下に埋設されていた。いま、この撮影ポイントから同じ方角を撮影すると、電柱だらけになってしまうだろう。花崗岩または一部鋳物で蓋をされた下水溝と、大谷石の敷石もはっきりと記録されている。また、路面は箱根土地が目白文化村を造成した当時のまま、土に砂利を混ぜた「簡易舗装」状態そのままなのが見てとれる。

 次の写真()は、今度は弁天通りを東に向いて撮影されたもので、1960年(昭和35)前後の風景。すでに路面はアスファルトで舗装され、道端の下水溝が消滅している。また、このころから木製の電柱が立ち始めていたのがわかる。子供たちの背後にあるクルマは、もちろんダットサン。戦前に同志会が建っていた、通りの左手あたりには大きな屋敷が新たに建設され、その向こう側には弁財天の社(やしろ)の森が見える。そのあたりに、建物がチラリと見えるのだけれど、これがウワサの「文化村ハウス」だろうか? この道の突き当りには、広大な箱根土地本社の敷地があった。

 この写真()は、1965年(昭和40)前後に撮られた第一文化村の原っぱ。空襲により、そのほとんどを焼失した第一文化村だが、戦後かなりたってからも焼け跡の区画に家が建設されず、このような空地の一画が存在していた。もっとも、木柵があるとはいえこのような原っぱは、文化村の子供たちにとってはかっこうの遊び場だったに違いない。
 
 次の写真()は、弁天通りからT字型に南西へと向かい、やがては第二文化村の中心へと抜ける“センター通り”Click!だ。この道の正面突き当りを右へ折れると、すぐ左手に弁天社がある。また、カメラマンの背後は、ほどなく第二文化村だ。の写真の少しあと(昭和30年代後半)に撮影されたらしく、人物の背後にはかなり古い型のクルマが写っている。また、左手にある球状の白い街路灯もめずらしい。当時、十三間通り(新目白通り)は影もかたちもなく、この道を背後へ進むとそのまま第二文化村へと直接抜けることができた。写真右は、現在のセンター通り。

 上の写真()は、第一文化村でもっとも大きな敷地に建っていたK邸。(もちろん戦前の撮影) ライト風建築で有名なお屋敷だったが、残念なことに空襲で焼けてしまい、いまは当時の面影を伝える門しか残されていない。K邸は、に写るセンター通りの1本東側の道沿いに建っていたが、門はさらに東の“「”字型の道沿いにあった。この“「”字の道沿いのN邸Click!が、河野伝の設計によるものなので、K邸も河野伝が関わっていたのではないか・・・という説もあるようだ。
⑥ 
 写真()は、お葬式ではなく周囲の樹木に注目いただきたい。1970年(昭和45)ごろに撮影された、やはり弁天通りを東に向いたショット。わたしが学生時代、1970年代の半ばに歩いた目白文化村は、森の中に生垣で囲まれた屋敷が点在する、この写真のような風情だった。正面左手にある大きな樹木は、弁天社のもの。右の写真は、現在のほぼ同じポイントから、弁天通りを東に向いて撮影したものだ。ほとんど、樹木の緑が存在しない。住民の世代が交代するとともに、住宅敷地が次々と細分化され、屋敷森は片端から伐られていった。

 最後の写真()は第一文化村ではなく、第二文化村にある下落合教会Click!(下落合みどり幼稚園)だ。1961年(昭和36)の春、入園式で撮影されたもの。子供たち自身が「意思決定」をしない限り、大人はできるだけ口をはさまず自由にさせ、子供の主体性にまかせる・・・というユニークな教育方針で、ひらがなカタカナさえ教えなかった。ここへ通えば、誰にも文句を言われず好きなだけ遊べる・・・と直感したらしいオスガキどもは、近くの幼稚園には首をタテに振らず、ふたり揃って「ここがいい~!」と選んで、都合6年間もお世話になったところ。(いまでも主体的に遊んでいるふたりなのですけれど、A園長先生どうしましょ?/爆!)
 目白文化村界隈の子供たちは、その多くがみどり幼稚園へ通っているので、この写真はことさら懐かしいのではないだろうか? 下落合教会の旧・尖がり屋根チャペルから、園舎のほうを向いて撮影されている。この界隈も空襲で焼けているが、第二文化村に住んでいた画家・宮本恒平が空襲直後に描いた『戦災後の文化村』Click!は、戦後に下落合教会が建設されるこの焼け跡あたりから西を向いて描かれたと思われる。
 写真左端に見えるお宅の左側には、いまも昔も上田医院があり、その斜向かいには戦前、第二文化村の水道タンクと水道器械室が設置されていた。佐伯祐三の「タンク」Click!に描かれた、正面の箱根土地社宅用地に下落合教会(下落合みどり幼稚園)は建っている。


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エム

T先生が園長の時代はそれほどユニークではなかったかもしれません。
制服もあったし、クリスマスの劇もやったし、ドリルのようなことも
やりました。
それでも自主性は身に付いていたのかもしれません。
10数年前に開催された同窓会で、男性も女性もみなさまとても自主的に
バーベキューの用意をしてくださったのが印象的でした。
by エム (2006-05-12 00:52) 

ChinchikoPapa

エムさん、コメントをありがとうございました。
すると、子供たちの自主性を最優先という方針は、A先生が園長先生になられてから、さらに徹底されたのですね。なにしろ、子供たちが“その気”にならないと、遠足も運動会もスケジュールが決まらない・・・という、普通の幼稚園ではありえないシチュエーションでしたから。
バーベーキュー大会でしたら、ものぐさなわたしでも、すごく自主的かつ主体的に取り組めそうなテーマです。(笑)
by ChinchikoPapa (2006-05-12 01:02) 

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