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「李香蘭」が歩いた坂道。 [気になる下落合]

 親父がよく口にした女優の名前に、“原節子”がある。原節子ほどではないけれど、ときどき口にしていた女優がもうひとりいた。“李香蘭”(りこうらん=リー・シャンラン)だ。このご両人、イメージがずいぶん異なるのだけれど、なぜかふたりの名前が古い映画を観るたびに口をついて出てきたので、きっと親父のお気に入りだったのだろう。(原節子は大ファンだったようで、往年の写真集さえうちにある) 原節子と李香蘭、実生活でもこのふたりはかなり親しかったような気配がある。
 もちろん、「李香蘭」は中国人ではなく、山口淑子という日本人なのだけれど、戦前の日本人はみんな、中国生まれでネイティブに近い中国語を話す彼女のことを、てっきり中国人の女の子だと思っていた。満州映画社が撮影した、「五族協和」をテーマとする国策映画へ次々と出演し、女優としてばかりでなく歌手としても、日中両国でその人気は沸騰した。日本では、松竹映画に出演して、当時人気の長谷川一夫などとも共演している。1941年(昭和16)に、有楽町の日劇で行われた李香蘭の公演では、入場を待つ観客が劇場を7周も取り囲み警官隊が出動するなど、「歌ふ李香蘭」ショーはいまや有楽町・数寄屋橋界隈の伝説と化している。
 満州映画社の国策映画へ、中国人の少女役として何度も出演した李香蘭は、中国側からも自国の少女だと思われていた。だから敗戦後、中国政府(国民党政府)に逮捕され「売国奴」として処刑されかかったが、日本人であることがなんとか証明されて、生命からがら日本へ引き上げてこられた。戦後は、日本の映画にも出演したが、香港などでも女優や歌手として活動。ほどなく渡米して、ハリウッド映画やブロードウェイの舞台につづけて出演し、やがて彫刻家のイサム・ノグチと結婚してすぐに離婚・・・という、なんともめまぐるしい人生を送った女性だ。
 
 先日、第二文化村を歩いていたら、参議院議員の山口淑子をTVで見かけるたびに、親父が「李香蘭」とつぶやいていたその名前を、突然、久しぶりに耳にした。1923年(大正12)に、第一文化村につづいて第二文化村が販売されると、もっとも早い時期に敷地を購入して和洋折衷の邸宅を建てられた、第二文化村でも最古のA邸が、空襲でも焼けずに現存している。そのお宅にお邪魔をしたとき、お住まいの方がポツリと、「李香蘭」の名前を口にされたのだ。第二文化村から拡がる斜面の坂下に、李香蘭が一時期住んでいたという。李香蘭というからには、戦後の山口淑子ではなく戦前の彼女のことなのだろう。戦前の彼女は、日本と「満州」とを往復する生活だったろうが、日本での住居は、どうやら下落合の第二文化村近くだったらしい。
 下落合界隈には、戦前戦後を通じて演劇人や映画俳優が何人も住んでいるし、李香蘭(山口淑子)では、わたしの耳はそれほどダンボにはならなかった。また、時間がなかったせいもあり、連れもあったので詳しいことは訊きそびれてしまった。わたしの耳がダンボになったのは、「李香蘭」のあとだ。「あたしは、人形町の出なのよ」・・・。おっと(!)、わたしの実家があった隣り町じゃないか。山手の目白文化村では初めて、日本橋出身の方との出会いだった。東日本橋(西両国)は、震災でも空襲Click!でも焼けたけれど、人形町はなんとか無事でそちらへ家族が逃げたんです・・・なんてえことを、まるで見てきたようにお話していたら、連れの女性は呆れて、もう坂道を先まで上っていってしまった。(^^; ということで、李香蘭は中途半端のまま、話題は思わぬ方角へとスライドしてしまったのだけれど・・・。
 
 第二文化村の南に、まるでシッポのように突き出た趣きのある坂道。いまは、坂の途中にある八重桜の巨木が見事な花をつけるころ、わざわざ遠回りをしてまでここを歩きたくなる、近隣のみなさんには人気のスポットだ。わたしも、ときどきそぞろ歩きをしているひとりだけれど、せっかく昔の写真まで持ち出して見せてくださったA邸の方には、時間がなくてたいへん失礼をしてしまった。
 今度、目白文化村や李香蘭ばかりでなく、わたしの親父が闊歩していた日本橋のお話もうかがいに、ゆっくりお訪ねしたいと考えている。

■写真上:A邸の玄関部。翠ヶ丘のN邸Click!と同様に、ほとんど手を入れられていない。外観は、一見和館のように見えるのだが、細かなところに洋風のしゃれた意匠がほどこされている。
■写真中は、A邸の全景。1階の中央部が洋間のある応接室。少し前までピアノが置かれていたそうなので、やさしい音色がこの坂道に響いていたことだろう。は、洋風応接室の様子。
■写真下は、戦後B29から撮影されたA邸。この坂道を上りきる手前両側は空襲で焼けているが、坂の途中から下までは無事だった。坂を下りた界隈が、往年の李香蘭が住んでいたあたり。は、李香蘭のブロマイド。はたして、李香蘭は目白文化村を散歩しただろうか。文化村の中でこの女性を見かけた方、いらっしゃいますか?


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梨

小道さんの所から来ました^^
こちらでは、たぶん「MM」という名前でコメントさせていただいた気がします・・・。
野うさぎのヒントありがとうございます!探してみます。

昔の話から色々な繋がりが見えてきて面白いですね~。
話をしてくださる方も素晴らしいですが、そのお話(以上のことも!)を私たちにも教えてくださるChinchiko Papaさんも素晴らしいです!!
by 梨 (2006-05-12 23:52) 

ChinchikoPapa

梨さん(MMさん)、憶えていますよ。低空飛行の昭和寮以来、ようこそ。(^^
みなさん、それぞれとても豊かな物語をお持ちなのですが、なかなかお話しする機会がないようです。たまたま、わたしがうかがったお話を、少しずつこちらにアップしているのですが、より詳しく、深くお聞きすると、おそらく地域伝承や地域史のワクを超えて、「日本史」になってしまうのではないかという気さえします。ちょっと面白いテーマですので、今度、こちらに考えを整理して書いてみます。
野良ウサギ探し、お楽しみください!(笑)
by ChinchikoPapa (2006-05-13 00:17) 

kadoorie -ave

トラックバック、ありがとうございました。
こちらからもトラックバックさせていただきました。『李香蘭』のドラマ、最初に聞いたときは上戸彩が演じるというし、アイドルを使ったチャランポランで派手なドラマなのかなぁと思っていました。ところが、美術一つとっても、隅々まで神経の通ったしっかりしたものでした。日本のシーンも、実は上海で撮っていて、畳のある和室なども中国人スタッフと協力して作り上げたものでした。
日劇を取り囲む日本人の観客など、中国人エキストラが演じていますが、日本人のメイク・衣装の人が担当しているので変ではありませんでした。それより、かえって昔の日本人の顔立ちに見えるから不思議でした。
ドラマの中に時たまプロデューサーや監督補が出演していました。実は誰が見ても日本人にしか見えず、完璧な日本語を話す「日本人役」が実は中国人のプロデューサーだったりして、おもしろかったです。
それにしても、東洋の強烈なラテン民族の国中国で2ヶ月もロケをした、東洋のゲルマン民族日本人スタッフは、さぞかし大変だったことでしょう。私は、どっちかというと中国にいるほうが気が楽なんですけど....(汗)
by kadoorie -ave (2007-02-13 12:53) 

ChinchikoPapa

まだ、トラックバックが反映されないようですね。きっと、So-netの負荷が高いのかもしれません。
わたし、このドラマを見たい見たいと思いながら、両日とも夜11時帰宅でまったく見逃してしまいました。(残念!) もちろん、同じく下落合の住人だった「ボク」の川島芳子も登場したんでしょうね。
http://blog.so-net.ne.jp/chinchiko/2006-08-12
日曜日あたり、再放送をするでしょうか・・・。
ドラマの制作現場に行き合わせるなんて、とても貴重な体験をされましたね。あと、お祖父様が住んでらした家の界隈レポート、たのしく拝見しています。やはり、当時の写真といまとを比べても、大きくさま変わりはしてなくて、面影が色濃く残っていますね。70~80年前の写真とつき合せても、まったく違う街並みで「ここはどこ?」となってしまうのは、焼けた東京ぐらいでしょうか。
by ChinchikoPapa (2007-02-13 15:16) 

kadoorie -ave

焼け野が原になりすっかり変わってしまった東京と、変わりたかったのに変われなかった上海と。
上海も、今は大慌てで「遅れ」を取り戻そうとしているのでちょっと前に住んでいた人は「ここはどこ?」になってしまうようです。
ただ、当時世界中から集まってきた経済の力で建物を造った(というより、造られてしまった)のをすっかり無駄にするつもりはなく、明らかに「お金を生む」レトロで美しい建物は元・個人の邸宅でもどんどん保存しています。その辺なかなかうまいんですよね.....。祖父母の住んだ家や通りもその対象のようでした。
ドラマにはもちろん川島芳子、出ていました。菊川怜が演ったのでどうなることか...と思いましたが、退廃の裏に堪え難い孤独感が垣間見え、いい雰囲気を出していました。
また、ほんの数秒の出演のために日本から次々と役者さんが集結するわけで、2ヶ月間、大量の日本人の役者が出入りしていたのも、すごいなぁと思いました。
by kadoorie -ave (2007-02-13 16:47) 

ChinchikoPapa

日本は、後世まで「お金を生む」文化的な継承が、見てますとつくづくヘタだと思ってしまいますね。今後、何百年にわたって美術ファンを全国から集めつづけるだろう中村彝アトリエの保存を、すぐにも決定できないのが象徴的なように思えます。建築史的にもきわめて貴重な刑部人アトリエも、いまだ壊されてしまったのが残念でなりません。
あっ、菊川怜はけっこうはまり役かも。(^^ ブログでロケのお話を読んでますと、ほとんど映画制作のような体制で撮られていたんですね。TV東京の快心の作といったところでしょうか。再放送したら、わたし会社で見てたりして。(爆!)
by ChinchikoPapa (2007-02-13 18:20) 

Cosmopolitan

はじめまして。「李香蘭」が歩いた坂道-興味深く拝見しました。最近、「李香蘭とその時代」というブログを開いて、いろいろな資料を調べていますので、参考になりました。ところで、下落合に山口淑子さんが住んでおられたのは、戦前ではなくて、戦後の一時期ですね。「李香蘭 私の半生」(新潮文庫)の393ページに、「ちょうどこのころ、両親や弟妹たちが相次いで中国から引き揚げてきた。お世話になった鎌倉の川喜多家から、大田区雪谷、新宿区下落合と転々としたあげく、東宝から借金してようやく杉並区世田谷に一軒の家を買い求めた」とありました。したがって山口淑子さんが、下落合に住まわれたのは、中国から帰還してきた大勢の家族を扶養するために、一度は断念した映画界に復帰する直前のころであったと思われます。
by Cosmopolitan (2008-03-14 16:46) 

ChinchikoPapa

Cosmopolitanさん、コメントをありがとうございます。
わたしは、当該のおばあちゃんより戦前のこととして、坂の下の李香蘭邸のお話をうかがいました。最新の記事にも書きましたけれど、当該の山口邸敷地は空襲で丸焼けになり、戦後は山手通りの造成・開通にひっかかって、その道路端の関係から長い間住宅が建たなかった敷地です。(一時期はホテルになってました) つまり、戦後に下落合へ住んだとすれば、この坂下ではなく、おばあちゃんの記憶・伝承とは別の場所ではないでしょうか?
換言しますと、戦前に住んでいた関係から土地カンのある下落合へ、戦後も一時期住んだのではないかと思われます。1938年(昭和13)の「火保図」で、この坂下に山口邸を発見してますので、最新の記事をご参照ください。
http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-03-08
by ChinchikoPapa (2008-03-14 19:33) 

Cosmopolitan

お返事有り難うございました。戦前、山口淑子さんのご家族は、最初は満州、そして戦後に帰国されるまでは北京にお住まいでした。ちなみに、満州と東京を往来していらしたころの李香蘭さんは、東京では、乃木坂の帝国アパートに、付け人のかたと一緒にお住まいだったことが分かっています。落合文化村の戦前の地図にある「山口邸」は、ずいぶん豪邸のようですが、ここに李香蘭さんがいらしたとは考えにくいですね。
by Cosmopolitan (2008-03-19 11:27) 

ChinchikoPapa

Cosmopolitanさん、コメントをありがとうございます。
さて、戦前の李香蘭の暮らしは奈辺に・・・。実は以前、同じようなことが下落合に住んでいた川島芳子についても出てきまして、川島浪速邸は「公式」の記録では赤羽にあり、芳子はそこから池袋の学校へ通っていたことになっています。ところが、下落合にも川島邸は存在し、当時の下落合事情明細図に掲載された「川嶌邸」と、邸へ牛乳(パン含む)を配達していた、目白通りにあったミルクホールの資料(小シーボルトの子孫が書かれた書籍)からも裏づけが取れた・・・というようなことがありました。別に当時としては、おカネ持ちなら家を何軒か東京市内外へ分散して持つのは、現在と違ってそれほど不自然なことではありませんでした。
このブログをつづけてお読みの方なら、よくご存じのことかもしれませんが、わたしは「公式」の記録(本人の自伝含む)をあまり信用していません。その現場で起きたこと、記憶されたこと、地元の方々の伝承や記録(周囲の目)を尊重し、そこに視座を据えた記事の書き方を、このサイトでは一貫してつづけてきています。先にも、西武電鉄の敷設と開業の「公式」記録(西武鉄道史)や国の地図が、おそらく陸軍がらみのデタラメな記録で、地元の方々の記憶や観察眼のほうが正確で的確だった・・・というような記事を書いたばかりです。
http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-11-25
自叙伝には書かれていないのに、村山知義が上落合の自邸+アトリエとは別に、下落合にも自邸を持っていたという記事も、実は先日書いたばかりでした。
http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-03-04
だから、自伝に書いてないから存在しなかったことだ・・・とは、わたしは決して思わないのですね。その周囲にいて、おそらく彼女を頻繁に見かけていたからこそ、地元の記憶として残っているのだと考えています。「山口邸」が李香蘭の自宅なのか、市外近郊の「別荘」「別邸」なのか、家族の実家として建設した邸宅なのかは厳密に規定できませんが、そこで彼女を頻繁に目撃していた方がいることは事実です。
換言すれば、「公式」記録や自伝に書かれていないから、「存在しない」「なかったこと」なのではなく、なぜ自伝にそのことがあえて書かれなかったのか?・・・と考えてみるのが、目白・下落合を基盤とするこのサイトの、わたしの視座なのですね。
by ChinchikoPapa (2008-03-19 14:28) 

Cosmopolitan

このサイトを開設された基本的視座はと思います。実際に足で取材して自分の目で確認することが大切ですね。
ところで、A邸のお婆ちゃんが、終戦後、山口淑子さんを目白文化村で見かけて「李香蘭さんだ」とつぶやいたとしても不思議じゃありません。このころの山口さんは、まだご本名で銀幕に復帰する前ですから。そして東宝から借金をされて世田谷に家族の住む家を購入されるまで、下落合に一時住まわれた事も確かです。

従って、昭和13年ころにあった下落合1772番地の「山口邸」と李香蘭さんとはたして関係があるのかが問題ですね。

山口淑子さんの本籍は佐賀県ですから、ご親族のかたが住んでいたとは考えにくい。ご両親はじめご家族はこのころは全員、中国にいらした。そうするとこの「山口邸」のような大邸宅に誰が住まわれていたんでしょうか?

東京滞在中は、李香蘭さんは乃木坂の帝国アパートを宿舎として、付け人のかたと住まわれたことは確かなのです。
by Cosmopolitan (2008-03-20 10:13) 

Cosmopolitann

このサイトを開設された基本的視座はと思います。⇒このサイトを開設された基本的視座は素晴らしいと思います。
by Cosmopolitann (2008-03-20 10:18) 

ChinchikoPapa

Cosmopolitannさん、早々にコメントをありがとうございます。
さて、実際にはどのような家だったのでしょうね。ちょっと余談ですが、下落合および上落合は、九州の出身者が寄り集まって小規模な「村」を形成する地域としても、大正末~昭和初期に東京市内では知られた場所だったようです。以前は「熊本村」について触れましたけれど、近々「大分村」についても記事にしたいと考えています。残念ながら、まだ「佐賀村」は聞いたことがありません。(^^

>そうするとこの「山口邸」のような大邸宅に誰が住まわれていたんでしょうか?

目白・下落合界隈を調べていますと、「空き屋敷」というテーマにときどきぶつかります。ちょっと長くなってしまいますが、お許しください。
戦前、このあたりには「空き屋敷」があちこちに見られました。地元の方でしたら、F.L.ライトの伝承が残り現存している大きなS邸のケースが、すぐにも思い浮かぶのではないかと思います。「空き屋敷」の存在が一気に浮かび上がり、大きな問題化するのは、B29の空襲が予想されるようになった太平洋戦争末期、警察/消防とともに町内の防火体制づくりが本格化したときです。
なぜ「空き屋敷」が多かったのか、それはこの地域の成立にも深く関わるテーマなのですね。目白・下落合界隈は、明治末から大正初期にかけ「別荘・別邸」地として拓かれ、関東大震災の前後から住宅地として開発が進んでいます。戦争末期に問題化したときの「空き屋敷」のケースを考えると、およそ次の3タイプに分類できるかと思います。
 ①地元の地主ではなく、不在地主による投機目的の借家建設
 ②市街地の住民が本邸として買い、後に住むことを想定した邸宅(隠居邸等)
 ③もともと別荘あるいは別邸として建築し、本邸は別に存在

上記の中で「空き屋敷」となったのは、わたしの知る限りでは①と②のケースが多いように思います。①は、地主が投機目的で土地を買い、そのまま遊ばせとくにはもったいないと考え、借家を建てて人に貸していたケース。震災からしばらくの間は、住宅難から「空き」になることが少なかったものの、この地域の住宅が飽和状態になってくると、空いたままの借家が増えてきます。1932年(昭和7)ごろ、林芙美子/手塚緑敏夫妻が住んだ五ノ坂にあった借家の西洋館は、なかなか借り手が見つからなかったというエピソードとともに有名ですね。
②は、おそらくいちばん多いケースではなかったかと思います。東京市内で会社・商店を経営していたり官公庁へ勤めていたり、出張などで海外に在住していた人たちが、いずれ自分たちが住もうと考えて、まだ安いうちに郊外へ邸宅を購入してしまう場合ですね。この場合、市内の家から家具類などを移して、あるいはいつでも入居できるように家具類を揃えて、週末に二重生活をしているケースも見られます。もちろん、隠居屋敷としてや子供夫婦が将来住むことを考えて、静かな元別荘地だった郊外へ・・・という考えもあったでしょう。先のS邸がこのタイプです。でも、実際には、便利な市街地をなかなか離れられず、あるいは仕事の都合もあって、下落合の家は「空き屋敷」化していきます。
③については、もともと別荘・別邸地でしたから、年間のある一時期を除いては、そのまま空いている屋敷がありました。
それが、1943~44年(昭和18~19)になると空襲で焼夷弾攻撃を受けた場合、消火活動をする人間がいない家は危険きわまりないので「解体する」という通達が、下落合町内にも出されました。この時点で、人が常時住んでいない多くの「空き屋敷」が顕在化するわけです。これまでの取材では、実際に解体されてしまった邸宅は一例も聞きませんけれど(わたしの実家があった日本橋区では、防火帯造りのために解体された家があったようです)、多くの「空き屋敷」の所有者たちは困ってしまったわけですね。
まず①のケースで、近くに住む地元の地主の場合は、それほどうるさくはなかったかもしれませんが、遠方の不在地主の場合は、戦時下ですから二束三文で借家を手放したようです。③も同様だと思いますが、中には市街地のほうが危険だから別荘・別邸に引っ越してきた人たちもいたようです。そして②の場合、仕事の拠点が東京市内あるいは他所の人たちが買った邸宅は、「壊されてはタイヘン」と大急ぎで引っ越してきた方(S邸ケース)と、泣く泣く買い叩かれて手放したケースとに分かれるようです。
このような、地域としての環境を考慮しますと、戦前、大きな屋敷に常時人が住んでいない、あるいはときどき姿を見かける、ときどき住む人が入れ替わる・・・というシチュエーションは、この界隈ではなんら不自然でも、おかしなことでもなかったように思われます。
そう考えてきますと、李香蘭は実際に坂の下で戦前に目撃されているわけですから、上記3つの中で②がもっとも可能性としては高いのではないかな・・・と考えます。事実、ここ下落合の「空き屋敷」ケースで多いのは、わたしの知る限り②のケースなのです。彼女の場合は、活動拠点が海外と東京市内だったわけですね。週末か、あるいはまとまった休暇の際に利用していたものか、そのあたりまでは不明ですが・・・。(他に投機目的というケース①もなきにしもあらずですが)
でも、なぜそれについて自伝でまったく触れられていないのか、なにかプライベートなことが絡み、書きたくはなかったものでしょうか?・・・と考え、いろいろ資料や取材を積み重ねて追いかけていくのが、このサイトをやっていて楽しいところなのですね。
by ChinchikoPapa (2008-03-20 23:57) 

Cosmopolitan

<戦前に>A邸の「お婆ちゃん」が李香蘭を見かけたというのは確かですか?伝聞だけなのでとちょっと頼りない。
単純に、<戦後>に李香蘭を見かけただけと理解するほうが、様々な資料と整合しますね。

by Cosmopolitan (2008-03-21 07:49) 

ChinchikoPapa

伝聞ではなく、戦前のこととしてご本人が目撃されています。
「記憶違い」「なにか勘違い」「錯覚」として片づけてしまうのは実にカンタンなのですが、それで埋もれてしまいかねなかった事実の出現を、このサイトで何度となく経験しているわたしとしては、「そうじゃないんじゃないか?」・・・と考えてみるんですよ。
by ChinchikoPapa (2008-03-21 11:57) 

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