SSブログ

下落合と六本木を結ぶもの。 [気になる下落合]

 六本木が米軍に占領され、3,000名の部隊が駐屯していたころ、六本木育ちのわたしの義父は、なぜか下落合にいた。戦時中は、空襲で負傷した人たちを、軍からトラックを借り受けて、都内では珍しく空襲をまぬがれ焼け残った、国際聖母病院へとピストン輸送していた。そのとき、下落合に馴染みができたのかもしれない。
 WVTR(FEN)からは、グレン・ミラーやベニー・グッドマン、ウッディ・ハーマン楽団の曲が流れ、徳川夢声のラジオドラマ『宮本武蔵』(吉川英治)が、いつのまにか同じ夢声によるマーガレット・ミッチェル原作の『風と共に去りぬ』へ変わったころのことだ。戦時中、映画『風と共に去りぬ』(1939年・昭和14)を観たある海軍士官は、「こりゃ負けるわ」と直感したそうだ。もちろん、映画館などで上映されているはずはない。占領地から押収してきた映画フィルムを、艦内の映写室で“鑑賞”していたときのことだ。おそらく、「総天然色」のこの大作と、当時の貧弱な日本映画とを比べてみて、「こりゃかなわない」と感じたに違いない。
 
 いや、映画の話ではなかった。戦争に負け、六本木の第1師団第1連隊の跡地に駐留していた米軍の話だ。その駐屯地の隣りにあった広大な敷地も、米軍の宿舎や住宅用地として接収された。現在の、米国大使館宿舎があるところ。ここは江戸時代、中村藩相馬家の中屋敷があったところだ。明治になると相馬家は、霞ヶ関の上屋敷と麻布(六本木)の中屋敷を処分して、神田川が流れる下戸塚の北斜面へと移ってくる。いまの甘泉園公園があるところで、少し前までは徳川・清水家の下屋敷だった。やがて、近衛邸敷地の一部を譲り受けて、下落合の御留山へと移転することになる。
その後、甘泉園の相馬家は御留山の相馬家とは、先祖は同じだが別系と判明している。また、下落合の御留山へ転居する直前に相馬家が住んでいたのは、霞ヶ関ではにく赤坂の氷川明神前であったことも判明した。
 この相馬つながりの縁でもあって、義父は下落合に惹かれたものだろうか。うちの親父は、大学の下宿が近かったせいもあるが、根っからの下町人だから“異国”の下落合に強く惹かれ、義父は六本木つながりの“人”の糸に導かれて、下落合へしばしばやってきていたのかもしれない。とにかく、うちの家系はなんやかやと下落合には縁があるようだ。わたしと、わたしの次の世代で、その縁はついに決定的となった。でも、逆に先祖代々が眠る下町とのつながりは、月に一二度足を向けるぐらいで、希薄にならざるをえなくなっている。
 
 いまや、米国大使館の住宅がふんぞりかえって建つこの一画は、江戸後期には中村藩相馬家の中屋敷とともに、松代藩真田家の下屋敷も隣接していた。さらにさかのぼると、江戸前期には備後三次藩の中屋敷があったところだといわれている。そして、芝居の『四十七刻忠箭計』(しじゅうしちこくちゅうやどけい/通称:南部坂)の有名な舞台でもあるのだ。『南部坂』は、忠臣蔵モノの中でも「南部坂雪の別れ」として、芝居ファンには圧倒的な人気がある。
 三次(みよし)浅野家の中屋敷にいる瑶泉院(浅野内匠頭未亡人)のもとへ、内蔵助が最後の別れにやってくる。屋敷内へ、吉良家のスパイが入り込んでいるのを知っている内蔵助は、「手っとり早く、吉良のやつをさっさとやっちまっとくれよう」とせがむ未亡人に、「奥さん、いけません。ああ、奥さん、それだけはなりません」と拒絶する。怒った未亡人は、プイッと部屋を出て行ってしまうのだが、内蔵助が置いていった日記を見て本心に気づき、雪が降りしきる南部坂上まで出て、内蔵助のうしろ姿をジッとうるんだ目で見送る・・・といった筋立て。本心を隠し、“悪者”になったまま“正義”を貫こうとする、もう日本人にはたまらないシチュエーションなのだけれど、わたしにはジレッたさが先に立って、黙阿弥作にもかかわらず、ぜんぜんピンとこない芝居なのだ。河竹黙阿弥は、やはり時代物ではなく世話物が本領。

 広大な米国大使館宿舎の北東に接した南部坂は、もともと歩くのさえ困難な「難歩坂」だった・・・なんてことも言われるけれど、江戸期の付会臭がプンプンする。元・相馬家中屋敷の北側には、晩年の勝海舟が愛した赤坂氷川明神がある。そういえば、甘泉園にあった相馬家の北側にも、氷川明神男体宮(スサノウノミコト)があった。そして、下落合の相馬邸の南には、氷川明神女体宮(クシナダヒメ)が鎮座している。いよいよ、出雲神との縁の深い相馬邸なのだ。
 御留山にあった相馬子爵邸の南側に、やはり氷川明神を発見した六本木育ちの義父は、よけいに下落合に親しみをおぼえ、惹かれたのかもしれない。

■写真上:再開発が進む麻布1連隊(旧・防衛庁)の跡地で、奥が六本木ヒルズ。
■写真中上は、相馬家の中屋敷跡に残る石組。は、道を隔てた反対側の赤坂氷川明神社。
■写真中下は、現在(2006年)の南部坂。は、1950年(昭和25)ごろの同所。左上に見えている森は、旧・松代藩真田家の下屋敷跡。このころは、すでに米国大使館の所有地になっていた。
■写真下:『四十七刻忠箭計』(南部坂)の、戦前に撮影された舞台写真。左は大石内蔵助役の初代・中村鴈治郎、右は瑶泉院役の五代目・中村歌右衛門。麻布界隈の唯一の芝居だ。


読んだ!(1)  コメント(3)  トラックバック(8) 

読んだ! 1

コメント 3

hydroponic

そもそも、落合、それも旧外人居留地でもない新興住宅地にキリスト教施設が進出して来たのは何故でしょう。田舎で環境が良かったからでしょうか。
元々、K家やU家、O家が所有する林や畑が広がっていたただけで、住民自体が少ない村だったのに不思議です。
私も「みどり幼稚園」に通い、日曜礼拝にも参加し、「聖母病院」にもお世話になりましたが、家から近い、綺麗なカードをもらえるといった理由だけで、結局信者には成らず終いでした。(^o^;h
by hydroponic (2006-05-23 10:30) 

ChinchikoPapa

やはり、関東大震災のショックが大きく、地盤のしっかりした山手が安全だ・・・という判断が働いたのは確かだと思います。それ以前からやってきていた教会や施設は、土地が町場に比べたら10分の1以下と、安かったからではないかと・・・。(^^;
関東大震災の影響以外に、明治末から大正にかけて健康志向の「田園都市」ブームとか「郊外住宅」ブームがあって、官民そろって郊外へ“ヘルシー住宅”を建てていたというのも、影響のひとつでしょうか。
わたしもキリスト教徒ではありませんし、神田明神や氷川明神の出雲神系あるいは将門の、どちらかといえば「信者」ですが(笑)、下落合ではなにかとキリスト教会にはお世話になり、縁も深いです。氷川明神の神輿休息所となってしまう、マリアの使者フランシスコ修道会(聖母病院)や目白聖公会など、とっても親しみが持てますね。下落合教会を含めますと、この3つの教会にはどれほどお世話になったことか・・・。
by ChinchikoPapa (2006-05-23 11:59) 

ChinchikoPapa

以前の記事にまで、「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2015-07-12 17:58) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 8

トラックバックの受付は締め切りました