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阪本勝の「吹けば飛ぶような」下落合? [気になる下落合]

 これも、先日のSo-netのエラー嵐でどこかへ行方不明になってしまった記事だ。もう一度、思い出しながら書いてみる。(少々、腹立ちまぎれでケンカ腰はご容赦)
 阪本勝が、あとがきで「佐伯祐三正伝」と自負する『佐伯祐三』(日動出版部/1970年)の中に、『下落合風景』をめぐるこんな記述がある。
  
 (Papa註/下落合の)あの辺は平凡きわまる風景である。みすぼらしい木造の家屋、狭い泥道、しょぼしょぼの潅木林、鉛筆のような電柱、それらの総合が落合だが、そんな薄っぺらな風物が佐伯のモチーフになるはずがない。佐伯のモチーフには、何はともあれ物量感もしくは重量感がなければならなかった。扁平で軽いものは彼の感覚を刺激しなかった。しかるに落合付近は、どこを見ても吹けば飛ぶような風物ばかりだった。およそ世界の街頭風景で、木造家屋のならぶ日本の風景ほど画題となりにくいものはないと私は思う。当時の下落合はそういう家屋の集落だった。それに向かった佐伯の情熱はたちまち萎えて、悄然とカンバスを眺めるよりほかなかっただろう。 (「モチーフにならない日本の風物」より)
  
 別に目白・下落合周辺にお住まいの方でなくても、戦前から東京に住んでいる方なら上の文章に、すぐにもゴリッとした違和感をおぼえるだろう。大阪出身の佐伯と同級生であるという著者は、一時期、上落合に暮らした経験があって「あの辺」をよくご存じだとのことだが(ホントだろうか?)、ちゃんと周囲を散策し、街並みや町の歴史(佐伯が暮らした大正末から昭和初期の風物)をよく見きわめて書いたのだろうか? 江戸から明治・東京のガンコな三田村鳶魚Click!風に言えば、大坂(おおざか)からポッと出てきて「知れなかったから穿鑿して了解したのであらう。明白に請取れる解説でない」ということになる。
 『下落合風景』の描画ポイント記事Click!でもさんざん触れているように、佐伯祐三は華族の屋敷が林立していた現在の下落合中心部のすべて、および、いまでは中落合と呼ばれる「鉛筆のような電柱」さえ存在しない共同溝が完備した目白文化村の中枢さえ、ほとんど描いていないのだ。むしろ、「物量感もしくは重量感」のある下落合の巨大な西洋館、あるいは大きな屋敷群をモチーフにするのを、ことさら意図的に避けに避けていたフシさえ見える。
 それは、いま現在で想定できる描画ポイントを鳥瞰しても明らかだ。佐伯がイーゼルをすえた描画位置は、上記の街並みを徹底して避け、その周囲に拡がる阪本の表現を借りれば「みすぼらしい木造の家屋、狭い泥道」で「吹けば飛ぶような風物」ばかりを、ことさら選んでモチーフにしている。(これ、地元にはずいぶんと失礼な表現だ) だから、いまの下落合および目白文化村を真ん中に佐伯が描いた『下落合風景』の足跡は、ドーナッツ状に外れへ外れへと向かっている。


 阪本は、佐伯が描く『下落合風景』がまず前提としてあって、それら作品から「下落合」をイメージしたにすぎないのではないか? まず、“現場”をきちんと取材して作品を語るのではなく、作品から“現場”をかろうじて推測しただけなのではないだろうか? 実際に、大正末から昭和初期にかけての下落合(佐伯が表現するのは旧・下落合全域)を少しでも取材すれば、佐伯が描いている風景とはずいぶん異なる、少なくともパリ近郊の農村よりも「物量感もしくは重量感」のある建築群が数多く存在したことに、すぐにも気づいていたはずだ。いや、別に目白・下落合界隈に限らない。パリでなくても、震災復興後の日本橋や銀座、大手町、丸の内にだって「物量感もしくは重量感」のある建築は存在しただろう。でも、佐伯はそのような場所の作品をほとんど残してはいない。
 そして、佐伯はそれらの建物をことごとく避けながら、ことさら「木造家屋のならぶ日本の風景」や「扁平で軽いもの」(阪本表現)、いまだ江戸期からつづく近郊農家が数多く残る周辺を、たんねんに歩きながら写生してまわっているのがわかっただろう。「平凡そのものの下落合風景をよくここまで描きあげた」とつづる、阪本の『下落合風景』を見る眼は、まるっきり逆立ちしている。
 佐伯祐三は、なぜ大正時代から昭和初期にかけて相次いで建てられた、「物量感もしくは重量感」のある日本の風景らしからぬ目白・下落合の街並みを、あえて描かなかったのだろうか? まったく同様のことが、1927年(昭和2)の夏、わずか1ヶ月足らずの短期間だが滞在した下落合の建築群をはるかに超えて「物量感もしくは重量感」のある、明治期からの政治家や財閥、おカネ持ちたちの大きな別荘群が林立していた、湘南・大磯Click!についても言えるのだ。これらの事実や認識が、阪本の視界からは丸ごとスッポリ抜け落ちている。
 それにしても、昔から目白・落合地域にお住まいの方たち、特に佐伯が描いた“ドーナッツ状”エリアに暮らし、美味しい下落合大根Click!を熱心に創りあげた近郊農家のおじちゃんやおばちゃんたちも含めて、「みすぼらしい」とか「しょぼしょぼの」とか、「薄っぺらな」とか「扁平で軽い」とか「吹けば飛ぶような」とか、まあ口汚い品性で、なんとも薄汚れたものの言い方をする輩ではないか。
 では、なぜ佐伯はそれらの風景を避けたのか? さまざまな情報や資料が錯綜していて、とても悩ましいテーマなのだけれど、いつか、わたしなりに整理してみたいと思っている。

■写真上:阪本勝『佐伯祐三』(日動出版部/1970年・昭和45)の中扉。
■写真下:佐伯祐三の『下落合風景』描画ポイントを、点ではなく面として捉えてみる。


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ChinchikoPapa

阪本勝『佐伯祐三』の記述の不可解さについて、改めて指摘している本を見つけました。美術学校時代からの親友で、パリで死ぬ際にも近くで寄り添いつづけた山田新一『素顔の佐伯祐三』(中央公論美術出版・1980年)です。その中で著者は、佐伯が野球をしたことがないなどと阪本は書いているが、全国中学野球(現・全国高校野球)の大会に出場し、「当時彼は、北野中学の野球部キャプテンとして、センターを守り、時にはリリーフピッチャーとして、マウンドに上がって活躍」していたと、阪本の著作とはまったく正反対のことを書いています。
そして、阪本勝『佐伯祐三』について・・・
「その著者は佐伯生存中、大変な親友であったように言っているが、最近会った佐伯の妻、米子の妹は、はっきりパリでも見なかったし、下落合時代の交友は全くなかったと断言していた」
・・・と記しています。これによれば、阪本は下落合の佐伯アトリエさえ訪れたことがあるのかどうか疑わしく、一度も下落合界隈に足を踏み入れたことさえないのではないか?・・・という想定さえできます。とすれば、『下落合風景』に関する彼の記述は、いっさいが佐伯の絵だけからのみ判断した想像上の「下落合」であり、まったく実際の“現場”の様子を知らなかったということになります。
by ChinchikoPapa (2006-07-06 13:12) 

屋根裏部屋の美術館

また、このブログの記事内容を私のホームページに引用させていただきました。
私は、佐伯祐三・荻須高徳・佐伯米子を少しだけ研究しています。そして、佐伯祐三真贋事件の中心人物落合莞爾氏の主張と、Papa氏のこの研究資料ともいえる貴重なブログ内容と、私の研究内容がきれいにラップします。
このブログは、非常にすばらしい研究内容であることには間違いありません。
by 屋根裏部屋の美術館 (2010-05-21 11:23) 

ChinchikoPapa

屋根裏部屋の美術館さん、こちらにもコメントをありがとうございます。
佐伯が暮らしたのと同じ空間=下落合の“現場”というだけで、彼の足取りをつたない取材と証言などとで少しずつたどっているだけですので、「研究」というほどの大げさなものではありません。(汗) 街の記憶やアイデンティティの確認、あるいは物語の発掘・・・ぐらいの感覚でしょうか。
当記事の人物は、山田新一も著作で何度か触れていますように、「佐伯の親友」にしてはあまりに齟齬が多すぎるように思います。この記事ばかりでなく、佐伯の「野球」がらみの記事でもずいぶん追いかけましたが、彼の佐伯像や周辺の描写は、事実から少なからず乖離していると感じています。
by ChinchikoPapa (2010-05-21 12:57) 

pinkich

papaさん こちらの記事大変参考になりました。佐伯祐三の落合風景から受ける印象だけで、当時の落合地域の様子を全て知ったように語るのは危険ですね。曽宮一念も、たしか佐伯祐三の落合風景は被写体が貧相だといっていたと記憶しております。また、そういった記事を見て、やっぱり佐伯祐三には日本の風景が物足りな買ったのだとするのが支配的な意見になっているように思います。どうして、佐伯祐三は、日本にもあった重厚な風景を被写体としてことさらに避けたのか、、、謎ですね!
by pinkich (2020-05-05 11:26) 

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