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和洋合体の“最前線”。 [気になるエトセトラ]

 戦前の建物を見ていると、「和」と「洋」とを明確に分けているものが多いのに改めて気づく。大金持ちならば、「和館」と「洋館」とを分けて建設し、渡り廊下かなにかでつないでいたのだろうが、ふつうのサラリーマンによる和洋折衷の住まいは、そんな贅沢など思いもよらないから、半分は和式で半分は洋式のこじんまりとした住宅を造る。でも、1軒の家の中でも洋式のほうへ入ったとたん、おそらく当時は、気分も生活スタイルも、食べるものまですべてが“別モノ”だったんじゃないか・・・という気がしてくる。
 いまでこそ、フローリングの洋間に箱火鉢や和箪笥があったり、和室に椅子やデスクが置いてあることなど別に珍しくないけれど、当時の室内写真を見ると、家具調度からインテリアすべてが明確に「和」と「洋」で線引きされていることが多い。あえて両者を融合させず、はっきりと分離して生活している住民の意識が感じられたりする。これは、同じ屋内でも家族がくつろいですごせる「奥」や「裏」の意識が“和”であり、仕事や客の応対など外部との接触のある「前」や「表」が“洋”である・・・という、開国したあと鹿鳴館以来の日本人に植えつけられた「習性」なのだろうか? ひとたび「洋」へと足を踏み入れたら、よそ行きの身なりによそ行きの思考を備えるという、千代田城の大奥とをつないだ御鈴廊下ではないけれど、ケジメの意識を感じるのだ。

 和と洋がいっしょくたになっても、いまではなんら不自然さを感じなくなっているけれど、当時の人たちには、和室に絨毯が敷いてあったり洋間に炬燵が設置されてたりすると、ことさら奇異に感じる感覚がまだ残っていたのかもしれない。そういえば、わたしが子供のころ、洋間(洋館)へ通される家へうかがうときには、ことさら母親が服装にこだわっていたような気がする。和室(和館)へ通されるほど親しくなったお宅には、ほとんど普段着のまま出かけていたような憶えがあるところをみると、和洋折衷住宅の「和」と「洋」は、ある種、親密さやつきあいを計れるバロメーターではなかったろうか。
 もっとも、「和館」と「洋館」を建てた駒場の前田侯爵邸Click!のように、まったく逆のケースもある。日常は家族全員が「洋」で生活し、お客を迎えるときにのみ礼をつくした「和」で・・・という、当時としては珍しい逆転の発想だ。それでも、日常生活を「和」と「洋」で明確に分けていることに変わりはないけれど・・・。

 和洋折衷を超えて、いまでは和洋融合の渾然一体とした住環境では、なかなか家の中で生活スタイルのケジメ意識を持とうなんて思っても無理だ。この部屋へ入ったら、よそ行きの格好によそ行きの意識・・・なんてこと、とてもできそうにない。そういう意味では、家の中でケジメの空間が消滅し、住まい全体がどこも同じのっぺりとした空間になってしまったのだろう。いや、ことさら書斎を欲しがる世のPapaさんたちは、家族と接するリビングこそが緊張したよそ行きの空間であって、唯一、息がつける「奥」や「裏」の世界を、実は欲しがっているのかもしれない。
 先日、上のオスガキのガールフレンドに、風呂あがりのパンツ姿をリビングでばっちり見られ、「ほほ~~ぅ」という顔をされてしまったわたしとしては、そんなくだらないことをいつまでも考えているのだ。

■写真上:洋館と庭園に置かれた信楽焼きのタヌキ。(旧・鳩山邸/音羽)
■写真中:洋館から和館への渡り廊下。(旧・前田侯爵邸/駒場)
■写真下:洋館と和館の合体接合部。(旧・岩崎邸/池之端)


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