ばあや、もう泣かないでおくれ。 [気になる下落合]
「ばあや、早くおいで」
「あ、足が、足がしびれちまって、よく歩けないんでございますよ、お嬢様」
「では、お父様たちと、ここへお残り」
「そうはまいりませんですよ、お嬢様。あたくしとお嬢様は、いつもご一緒」
「まあ、ばあやのご一緒は、都合のよいときだけですね」
「おや、とんでもございません、お嬢様。それにしても、坊主のお経はやたら長かったですねえ」
「しかたがないわ、ばあや。お盆だし、それに戦死なされた大磯の叔父さまの七回忌ですもの」
「大磯の旦那様だって、あんなお経を聞かされた日にゃ、たいくつで死にたくなるてえもんです」
「もうお亡くなりです、ばあや」
「おや、そうでした。では、お盆に化けてお出になる元気も、失せてしまわれるてえもんです」
「嫌なこと言わないでおくれ、ばあや。いくら叔父様でも、お化けは苦手です」
「・・・ねえ、ね~え~、お嬢様?」
「ダメです。うなぎ屋などに、寄っている暇はないのよ」
「・・・なっ、なんで、おわかりなんでしょ!?」
「ばあやの考えそうなことぐらい、ちゃんとわかります。先ほど、お寺の階段をのぼるとき、ばあやが盛んに振り返っていたの、わたくし見ておりました。その先には、うなぎ屋の看板が見えています」
「あれまあ、お嬢様。案外、抜け目がなくていらっしゃるんでございますねえ」
「それぐらいわかるわ。もう、18年も一緒にいてよ」
「・・・もうすぐ、19年、でございますねえ。そして、20年、21年、22年・・・」
「・・・なにが、言いたいの? ばあや」
「あと30年ぐらいは、ご一緒できますでしょうかしら? ・・・おや、どうなさいました、お嬢様?」
「・・・な、なにやら、強烈なめまいに頭痛がするわ」
「あれまあ、大丈夫でございますか、お嬢様?」
「・・・ああ、気が、気が遠くなります」
「あれまあ、たいへん!」
「急に、足元から、奈落の底へ、突き落とされたよう・・・」
「おや、お嬢様、やっぱり、暑気あたりでございましょう? だから言わんこっちゃない!」
「思いっきり、勘違いしています、ばあや」
「お熱が、あるんでございましょうか?」
「・・・身体から、急に力が、絶望感とともにどんどん抜けていきます」
「日傘をお差しくださいって、だから、あれほど申し上げましたのに!」
「つらいわ。和尚さまの、お経よりも」
「だから、言わないこっちゃないんですよう、お嬢様! も、もし、もしも、お嬢様の身になにかございましたら、あたくし、あたくし、もうどうしていいのやら・・・」
「・・・まあ」
「きっと、きっと、すぐに死んでしまいますよう!」
「まあ、ばあやったら・・・」
「いいえ、もう乃木大将のように、あたくしも、きっときっとお嬢様のあとを追って自害いたします。お嬢様のいない世に、未練はございません。きっと、生きてはおりませんです!」
「ばあや、ねえ、泣くことはなくてよ」
「ですけど、お嬢様に万が一のことがありましたら、あたしゃ生きてる甲斐がありゃしません!」
「ばあや、わかりました。ねえ、わかりましたから、もう泣かないでおくれ」
「ですけど、ですけど、お嬢様・・・」
「ほら、わたくし、もう元気になりました」
「・・・ほ、ほんと、でございますか?」
「ええ、もう大丈夫です。めまいも、治りましたよ。だから、泣かないのよ、ばあや」
「いいえ、お嬢様、無理をなすっちゃいけません。まだ、お足元が危のうございますよ!」
「もう大丈夫です、ほら、ご覧? 階段も、たやすく下りられてよ」
「あ、あれまあまあ、お嬢様、あたくしを安心させようてんで、無理をなされて・・・」
「ばあや、無理などしてなくてよ」
「そういう、けなげなお気持ちはうれしゅうございますけど、どっかでお休みになってくださいまし」
「ですから、わたくしは、もうすっかり元気ですよ、ばあや。・・・ねえ、これで涙をおふき?」
「そんな、もったいのうございます、お嬢様。どうぞそのまま、そのまま。動いちゃいけませんですよ」
「なあに? ほんとうに大丈夫ですよ、ばあや」
「このあたりは医者も多いし、ちょいと、念のために人を呼んでまいりますから」
「ばあや、もういいのよ。気づかってくれてありがとう」
「いえいえ、そんな、もったいのうございますよう、お嬢様」
「ねえ、ばあや。このまま、ちゃんと帰れるわ。・・・ねえ、どこへお行き?」
「いえいえ、ちょいと、そこのうなぎ屋ですから、じきに人を呼んでまいりますんで・・・」
「ばっ、ばあやっ、ちょっと待ちなさい! ・・・お待ちー!!」
「わたくし、生きているうちはもう二度と、うなぎは食べたくないわ」
「おや、そうでございますか、お嬢様?」
「ばあやといると、もう、一生ぶんのうなぎを食べてしまってよ」
「やっぱり、夏はこいでなくっちゃ、ねえ、お嬢様。・・・あたしも、精がつきますです」
「・・・ばあやに、精がついて、どうするのかしら?」
「そいえば、早稲田の学士様はあのあと、とんとおみえになりませんですねえ?」
「・・・その お話Click!は、やめておくれ、ばあや」
「おや、どうしましてす?」
「たった5分で召し上がってお帰りになる殿方など、わたくしとは住む世界がちがうのです」
「だって、そりゃお嬢様、お出ししたのが蕎麦なんですから」
「わたくし、手ずから3時間もかけて打った、特別なお蕎麦なのですよ!」
「蕎麦を30分もかけて食べる、そんな野暮な男なんぞ、町場にゃいやしませんですよ、お嬢様」
「それにしても、ばあや。あのお方ときたら、お蕎麦をズルズルすするのです!」
「だって、お嬢様、蕎麦なんでございますから」
「わたくし、ものを召し上がるときに音をさせる殿方、大嫌い。許せないのです!」
「お言葉ではございますが、お嬢様、蕎麦を音なしでモグモグ食ってた日にゃ、いえ、噛みながら召し上がってた日にゃ、そのほうがよっぽど下品で許せませんですよ!」
「あら、なぜなのです、ばあや?」
「そんなもん、汚らしくてしゃ~がないじゃありませんか、お嬢様」
「・・・そうかしら」
「そうでございますとも、お嬢様」
「それにしても、お品のない殿方は、こちらからお断りです」
「あれま、せっかくの七夕ご縁が、もったいない」
「もったいなくなどありません、ばあや。やはり、殿方は全国の帝大か慶應か学習院か立教か明治か法政か、できたばかりの芸大に限ります」
「・・・おんや? なにやら、学校の数がた~んと増えましてす。いつのまにやら、お嬢様、ご縁の間口を思い切って、う~んと広げられたんでございますねえ」
「そ、そんなことありません、ばあや。わたくし、ずいぶん以前からそう言っててよ」
「・・・そうでしょうか? お嬢様」
「ところで、ばあや、どうしてお茶がひとつ、多いのかしら?」
「・・・おんや? ・・・どなたか、お寺から、ついてきちまったようですねえ」
「な、なあに? なにをお言いなの、ばあや?」
「おやまあ、大磯の旦那様! これはこれは、お久しゅうございます!」
「やっ、やめておくれ、ばあや!」
「それが、大磯の旦那様、聞いてくださいまし。お嬢様がなかなか難しくてらして、いまだお嫁に行かれないんでございますよ。ほんっっっとに、ばあやは困り果てましてす!」
「だっ、誰とお話しているの!? ばあや!」
「ま、殿方なんて一緒になっちまえば、どれもこれも似たようなもんでございましょうが、まあ、お嬢様のご注文が多すぎて、これには旦那様や奥様もほとほと、手を焼いておいでなんでございますよ」
「お、お父様やお母様は、ばあや、そんなこと一度もおっしゃってなくてよ!」
「そいで、ついこないだも殿方をお招きしたら、なんとまあ、蕎麦なんてえことを申されまして、あれまあ、お夕食に蕎麦なんぞを出される始末なんでございます。お話になりゃしません」
「な、なにを言うの!? あ、あれは、ばあやがお蕎麦にしようって、言ったのではなくて!?」
「ほんとに、あたくしの目が黒いうちに、お嬢様が嫁がれるかどうか、怪しいもんでございますねえ」
「まあ、ちょっ、ちょっと、なんですか、ばあや!」
「ご自分のことばっかりで、こんな歳になってまで一所懸命、それこそ必死でご奉公してるあたくしのことなど、心配のひとつもしてくださりゃしません。ただただ、ご用を言いつけられるばっかりで・・・」
「ば、ばあや、思いっっっきり、間違っています!」
「こんな老い先短い、いつ死ぬかわからない年寄りが、死ぬ前に一度でいいからうなぎを食べたいなんてえこと申し上げましても、なかなか、おいそれとは連れて行っちゃくださいません」
「い、いまさっき、わたくしがまだ半分ほどなのに、うな重の松を平らげたばかりじゃなくて!?」
「まあ、大磯の旦那様に、こんなことを申し上げましてはナンですが、お嬢様はいまのご気性だと、一生おひとりで過ごされるんでございましょうかしらねえ。なんとまあ、おいたわしいこって・・・」
「ちょっ、ちょっと、お待ち、ばあや! ねえ、叔父様、ぜひお聞きになって! ばあやときたらねえ、お昼食のあと、わたくしのことなど放り出して、この間など1時間もお風呂に浸かっていたのです! しかも、お母様の香水石鹸をどこからか持ち出してきて、むやみにごしごし身体をこするものだから、お肌から脂分がすっかり飛んで、シワシワの梅干しみたいになってしまいましたの! そうしたら、ねえ叔父様、お聞きあそばせ! わたくしのお化粧台から、今度は進駐軍の高級洗顔クリームを持ち出して全身に塗ってしまうから、半分ほども減ってしまいましたの! まあ、それだけでも驚くのだけれど、それで全身がかぶれてしまって、あげくのはてに、シスターがおやさしくて上げ膳すえ膳だから極楽病院だてんだぁ~・・・とかなんとか言っちゃって、聖母病院へ1日入院してたりするのですよ! もう、とても信じられませんわ! それから、この前などは・・・」
「あれまあ、お嬢様。たったいま、大磯の旦那様はニコニコされながら、あちらの国へお帰りになられてしまいましてす。おやまあ、手を振ってらっしゃいますです」
「わ、わたくし、まだ、お話が途中なのです! なんだか、とってもたまっているのです!」
「ごめんくださいまし~。・・・まあ、大磯の旦那様はお変わりもなく、相変わらずお元気そうでなによりでござんした。あれまあ、うなぎの水槽の向こっかわから、まだ手を振っておいでですってば」
なんだか、ウナギが食べたくなってしまいました。
そういえば、もうすぐ、土用ですね。
by fuRu (2006-07-18 09:39)
いまや、街中のお弁当屋さんでも「うな重」が1,050円とかで売られていますが、わざわざ「浜名湖うなぎ」と断って売っているところをみると、中国産のうなぎが市場を席巻しているんでしょうね。
昨日、近所のスーパーへ寄ったら、「浜名湖うなぎ(加工場)」という中国うなぎをたくさん売っていました。そのうち、「江戸前うなぎ(R)」という中国うなぎも登場するかもしれません。(笑)
by ChinchikoPapa (2006-07-18 10:47)