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「道」の近くに拡がる原っぱ。 [気になる下落合]

原1926.jpg 

 この『下落合風景』は、1926年(大正15)9月19日の「道」Click!と同日に描かれた、「原」ではないかというのがわたしの想像だ。「道」では空が少し曇っているが、おそらく早い時間に描かれた「原」の時間帯では晴れていたものか、樹木の陰になっている△看板に、木漏れ陽が当たっているのがわかる。もっとも、ものたがひさんにお教えいただいた気象記録では、当日は「晴れ」となっているのだが・・・。この絵では、雲が拡がり始めているようにも見える。
 この△看板、わたしが子供のころまでそこかしこに立っていて、とても懐かしいフォルムだ。たいがい、「○○小児科医院」とか「○○耳鼻咽喉科医院」という文字がスミ1色でタテに書かれていて、三角柱状だからどの方角からでも、たいがい文字が読めるしかけになっている。中央やや右側の木の下に、木漏れ陽でまだらな看板があるのがわかるけれど、文字は残念ながら読めない。看板名がわかれば、即座にどのあたりの風景だか特定できるのだが・・・。
 
 △看板があるところをみると、この場所は道と道が合わさる角の公算がきわめて高いといえる。つまり、手前を横に道が横切り、ちょうど△看板のところから奧へと進む道があるのだろう。家々の向きにややバラつきがあるものの、手前が南か北の方角のように思える。おそらく、「道」よりも早い時間に描かれたと思うので、午前あるいは遅くとも昼ごろと想定すると、陽の当たりかたからみて手前が南側、正面が北側になりそうだ。
 左手には、木立ちの向こうに2階建ての和風住宅があり、奧まで何軒かの住宅がつづいているのが見える。中央の電柱をはさんで、右手の看板横には小さな三角の屋根を持つ家が見え、そのさらに横には大きな棕櫚の木が植わっている。背後には、屋根に尖がった飾り立物の載る大きな屋敷があり、その右手にも屋敷があるのがチラリと見え、やはり背の高い棕櫚が植えられている。看板の位置から奧へと向かう道は、家々の見え方から少し右へと曲がっているようだ。

 『下落合風景』の「道」と同日に描かれたと仮定すると、「道」の描画ポイントのごく近くを描いていることになる。同日に描かれた他の2点作品の関係から、佐伯は1点めを描いてから、再び描く場所を探し歩くのではなく、ほとんど同一の場所を異なる角度から、あるいは異なる方角を描いているのがわかる。9月28日の「八島さんの前通り」と「門」、10月21日の「八島さんの前」と「タテの画」、同月23日の「浅川ヘイ」と「セメントの塀」などをみても、2つの同日作品の描画ポイントは数十メートルしか離れていない。しかも、「原」と「道」は同じ15号で、キャンバスを中表にして2枚持ち歩ける。
 では、「道」の描画ポイントの周囲に、この風景に一致する場所があるだろうか? そもそも「道」のエリア自体が、第二文化村の北外れにあたるので、大正末のこのあたりはまだ畑か原っぱだらけだったろう。そんな空き地を、1936年(昭和11)の空中写真でひとつひとつ検証していくと1箇所だけ、この風景にマッチするポイントが見つかった。「道」の描画位置から、40~50mほどしか離れていない、1936年当時も原っぱが拡がっている一画だ。上空からの写真で、薄い道筋が確認できるところをみると、すでに宅地造成が行われていたのかもしれない。「道」の南西側に広がる原っぱの中に入りこみ、北側を眺めたときの風景がこの作品に酷似している。手前の「原」は下落合1680番地界隈、前方に見えているのは葛ヶ谷10~12番地あたりということになる。
 この場所は、葛ヶ谷が下落合側に大きく入りこんだあたりで、いまは西落合1丁目の住所表記となっている。佐伯は、またしても下落合の境界ギリギリを、外へ向けて描いていることになる。確かに手前の「原」を中心に見れば、『下落合風景』ということになるのだが・・・。「目白風景」Click!の高田町金久保沢や「上落合の橋の付近」Click!のように、佐伯は下落合から完全に外れたところへイーゼルをすえた場合は、ことさらそれを意識してタイトルやメモに残しているようだ。つまり、正面に見えている家々が葛ヶ谷であっても、イーゼルを立てた手前の「原」が下落合であることを、佐伯ははっきりと認識していた可能性がある。
 
 現在は、ちょうど看板のあったところにH医院があり、北へと向かう右曲がりの小路は、すぐに途中で行き止まりとなってしまう。なぜなら、戦後そのさらに向こう側には落合第二中学校が建設され、小路の突きあたりが校庭となってしまったからだ。看板の横に見える三角屋根のコンパクトな家は、はたして当時から医院だったのだろうか? 『落合町誌』(1932年・昭和7)には、開業している内科医・外科医・歯科医・耳鼻科医・産婆などがリスト化されて載っているけれど、1932年(昭和7)当時の葛ヶ谷の医師はたった1軒しか収録されていない。
 このような下落合の原っぱでは、いまでもトンボを数多く見かけるが、もしこの「原」が9月中旬に描かれたとすれば、アキアカネやウスバキトンボがまだ飛んでいたはずだ。目をこらして画面を探してみたけれど、トンボらしい姿は描かれていなかった。では、この『下落合風景』を描画ポイントClick!に加えてみよう。

■写真上は、佐伯祐三『下落合風景』(1926年・大正15)。原っぱの木立や草の雰囲気から、同年9月19日に「道」と同日に描かれた、もうひとつの作品「原」ではないかと想像する。は、現在の同所の様子。当然、「原」には家々が連なり、描画位置にはすでに立てない。△看板のあった角地は、ちょうど塀の角になっているあたり。
■写真中は、看板のまわりを拡大したもの。白い表面に木漏れ陽が見えるので、おそらく晴れているのだろう。は、描画ポイントのすぐ近くに残る原っぱ。昔から、ずっと原っぱのままだ。
■写真下は、1936年(昭和11)の下落合1680番地界隈。は、1947年(昭和22)の同所。道路をはさんで、向こう側は葛ヶ谷(西落合1丁目)となる。戦後すぐの写真には、第二文化村を焼いた火災がこのあたりまで延びてきたのがわかる。すでに原っぱはなく、家々が密に建ち並んでいた。


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ChinchikoPapa

「横浜西口方面」に写る運河沿いの出版社で、学生時代にバイトをしていたことがあります。nice!をありがとうございました。>hideyaさん
by ChinchikoPapa (2010-05-27 18:35) 

ChinchikoPapa

いつも以前の記事にまで、nice!をありがとうございます。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2010-07-06 11:07) 

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