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下落合を描いた画家たち・林武。 [気になる下落合]

林武「文化村風景」1926.jpg 

 『文化村風景』と名づけられた、林武の1926年(大正15)作品だ。どうやら、第一文化村に接した箱根土地本社の社屋と、その前にあった庭園(不動園)あたりを描いている。この作品が描かれた当時は、箱根土地は国立駅へと移転し、中央生命保険の建物になっていただろう。建物の外壁の色に関する“謎”については、以前にも「写真で見る箱根土地本社」Click!で触れた。この作品はカラーで観ていないのでわからないが、やはり外壁が白っぽく描かれている。
その後、林武『文化村風景』(1926年)および松下春雄『文化村入口』(1925年)ともにカラー画像を入手したので画面を入れ替えている。壁面の色を観察すると、松下が描いた1925年(大正14)の時点では明らかにレンガ色をしていたと思われるが、林が描いた1926年(大正15)の時点では外壁が白っぽくなっており、箱根土地本社から中央生命保険倶楽部の建物に切り替わる際に、レンガの外壁が明るい色へ塗りなおされたと思われる。
 松下春雄が描く『下落合文化村入口』は、林武が『文化村風景』を描く前年、1925年(大正14)の作品だが、実際にこの絵を観ると箱根土地本社の外壁は、レンガ色に近い色で塗られていた。ところが、1年後のこの作品や、のちに落合小学校の生徒たちと撮られた写真では、どう見ても白っぽい壁色に見えてしまう。箱根土地から中央生命保険へと社屋が譲られた際、壁面を明るい色に塗りなおしたものだろうか?
松下春雄「文化村入口」1925.jpg 
 左手に大きな木が繁っているが、その枝葉を透かしてとんがり屋根の(赤い屋根だろうか)西洋館が見えている。おそらく、堀江邸だと思われる。手前には、当時の文化村住宅でも導入された、まるで社(やしろ)の境内囲みのような、大谷石による石垣がある。この石垣の角は、奇妙なかたちの終わり方をしていて、まるで下に溝でも切ってあるような様子に見える。中央の正面には、明らかに第二府営住宅と思われる家並みが見えている。いちばん大きく描かれている日本家屋は、松下春雄が描いた『文化村入口』の看板上に描かれた屋根のかたちに近似しているが、府営住宅は規格化された建物が多かっただろうから、いちがいには同一建物とは断定できない。
 もう少し細かく見ると、正面の庭園と思われる草地には、わたしが子供のころ庭でよく見かけた、竹を半円形にして地面に突っとした、花壇囲みのようなかたちが観察できる。前面に見えている庭が、元・箱根土地本社の庭園であることは間違いないと思うが、問題は描画ポイントだ。建物の見え方や、その大きさを考慮すると、敷地南端の道からではなく庭園内部からの風景のように思われる。正面に見えている社屋はもちろん、府営住宅の見え方も、箱根土地敷地の南端から眺めたにしては、かなり大きく見えすぎるのだ。松下春雄と同様に、庭園の中に入って描いたものか。
 
 でも、手前に住宅の敷地を思わせるような、大谷石の石垣があるのがひっかかる。箱根土地の前庭には、西側に接した道、つまり松下春雄の『文化村入口』に描かれた左手の道に面して、車庫(ガレージ)の建物が建設されていた。この石垣は、ガレージの建屋を囲んでいるようにも考えたが、作品の描画位置がもっと庭園へ入りこんだ内側のように見えるので、車庫建屋の石垣にしては位置が合わないようにも思える。
 また、庭園には大きな池が造られていたので、弁財天を祭った社でも前谷戸(第一文化村)の弁天池から、箱根土地本社の敷地内へ勧請したものだろうか。

■写真上は、林武『文化村風景』(1926年・大正15)。は、現在の同所
■写真中は、松下春雄『文化村入口』(1925年・大正14)。やはり、箱根土地本社が描かれている。は、大谷石を用いた近似する石垣例。だが、作品の石垣はやはり社(やしろ)を連想させる。
■写真下は、1936年(昭和11)に上空から撮影された中央生命保険敷地。中央にあった大きな池の水は、すでに抜かれてしまっているようだ。は、1925年(大正14)に作成された目白文化村の分譲地地割図。左の接道沿いに車庫が見えるが、描画位置はもう少し内側のように思える。


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