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この「く」の字カーブには見憶えが・・・。 [気になる下落合]

 
 佐伯祐三が描いた『下落合風景』のひとつ、おそらく未完のままにされたかもしれない作品だ。戦災で失われたか、あるいは個人蔵なのかはわからないが、カラー図版では観られないため詳細はわからない。手前にカギ状に屈折した道路が描かれ、正面にはかなり古めかしいどっしりとした日本家屋が建っている。その左手には、描きかけと思われる2軒ほどの屋根が見えている。つまり、地形的には左側が急激に落ちこんだ崖になっており、その崖淵の上を走るカギ状に折れた道が描かれていることになる。
 この風景の感触、いつか目白崖線のどこかで味わったことがある。手前に描かれた、直角(90度)に曲がりきらない崖沿いの「く」の字型の道は、旧・下落合が広いといっても、そう何箇所もあるわけではない。しかも、これほど急激に左手へと落ちこんで見える場所、そして家々がそれほど建てこんでいない場所は、いまの下落合側ではなく、中落合や中井2丁目の南斜面の風情に合致している。でも、目白崖線ではなく、内部へ入りこんだ谷戸の風景ではないかとも想定し、考えられる崖淵はすべてチェックしてみるが、やはり“あの場所”しかなかった。
 佐伯は二度にわたり、この道がつづく坂上と坂下を描いている。坂上は、大日本獅子吼会の西側坂Click!を南へ向いて描いた作品で、この「く」の字型に屈折した曲がり角も、突き当たりにかろうじて描きこまれている。坂上からの作品に描かれた右手の電柱が、この作品でもやはり右手に描かれている。また、坂下の中ノ道へと抜けるカーブした坂道、つまり中井駅の開設を見こんで急速に宅地化が進んだ蘭塔坂(二ノ坂)Click!も、佐伯は『下落合風景』として残していた。この坂道がよほど気に入ったものか、佐伯はここでも連続してイーゼルをすえていることになる。
 
 佐伯がイーゼルをすえた当時、この道の左手には空き地が拡がり、その先には新宿の一大パノラマが展開していて、それはいい眺めだったろう。先の大日本獅子吼会の西側、坂上から南を向いて描かれた『下落合風景』にも、目白崖線上から見た新宿の眺望が描かれているが、この作品の位置からは、さらに見事な眺めが目前に拡がっていたに違いない。同じ崖線沿いに住んだ松本竣介も、同様のパノラマ作品を数多く残している。佐伯のイーゼルの右手には、小さな民家の屋根越しに大日本獅子吼会の寺院(大正末当時は大伽藍だったかどうかは不明)が見え、佐伯の背後には蘭塔坂(二ノ坂)の坂名の由来となった屋敷墓が、濃い緑の中に見え隠れしていたはずだ。その屋敷墓の手前を右に曲がると、もうひとつの『下落合風景』である右へカーブした坂道へとさしかかる。
 1936年(昭和11)の空中写真を見ると、正面に描かれている大きな屋敷が、すでに取り壊されたのか写っていない。左手(南側)は空き地のままとなっているが、ほどなく洋画家・金山平三の大きなアトリエが建設され、この場所からの眺望がほとんどきかなくなってしまう。1926年(大正15)の「下落合事情明細図」を見ると、この道の屈折部分から南へ下る道が描かれているのだが、これがずいぶん前から悩みの種となっている。こんな断崖状の場所から、南へ道がつづいているのがおかしいし、いまも昔も道は存在していない。空中写真にも道らしい筋は見あたらないし、他の各種地図でも道など描きこまれていないのだが、「事情明細図」制作者のめずらしいミスだろうか? それとも、空き地の端から南の崖下へ下りる細い道でもついていたのだろうか? 「事情明細図」には、かなり太い道のように描かれているのだけれど・・・。
 
 現在、作品に描かれた風景の左手は金山アトリエ、正面は大日本獅子吼会の関連施設となっている。マンション状のこの宗教施設は、1階部分が大きく吹き抜けになっていて、いまでも新宿のパノラマを眺めることができる。先日、その吹き抜けから、めったに見られない一大パノラマを楽しんでいたら、「あら、鍵かけてなかったんだわ」・・・と、施設のおばさんに注意されてしまった。(不法侵入すみません<(__)>) 写真を撮る前に、追い出されてしまったのが心残り。
 では、この『下落合風景』を描画ポイントClick!に加えてみよう。

■写真上は、佐伯祐三の『下落合風景』(1926年・大正15)。は、描かれた風景の現状。
■写真中は、1936年(昭和11)の空中写真に見る描画ポイント。は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる同所。角から南へと下る同幅の道が描かれているが、いまも昔もこの道は存在しない。他の各種地図でも、この道は存在しないことになっている。
■写真下は、蘭塔坂(二ノ坂)界隈における佐伯の足取り。は、現存する金山アトリエ。  
左:1923年(大正12)/右:1925年(大正14)地図
 
左:1926年(大正15)/右:1929年(昭和4)地図
 
右:1936年(昭和11)文化村上空/右:同年上落合上空
 
ものたがひさんコメント図版



塀か縁石か?
 
灯篭の笠と下り口?

1947年(昭和22)二ノ坂付近

ひな壇状の階段(北上道)

二ノ坂風景(マイケルさん提供)
 二ノ坂上から/二ノ坂クランク
 
クランクを上から/A邸
 
「ムウドンの丘」を離れると・・・


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マイケル

いつも大変興味深く拝見しております。今回の写生場所につき近隣に生まれ育った者としてコメントさせて頂きたく思います。先ず、金山平三画伯のアトリエですが、これは同画伯の画集(日動出版)によると大正14年4月に完成したとあります。今回のテーマとなっている絵の制作年(=大正15年)が正しいとするとその時点までに金山邸は出来上がっていることになります。画面に金山邸が描かれていないということは、制作年が間違っているか、写生場所が違うのでは、ということになります(画集の記述は正しいとの前提で)。
私は以下の理由でどうも後者(場所が違う)ではなかろうか思うのです。

佐伯画伯の作品群をみると画伯は「角度」あるいは「斜度」についてはディフォルメすることは少なくかなり正確に描かれておられたように思われます。その理解で今回の作品を見ますと、①道は90度に満たない角度で曲がっていて且つ、②その道は画面右から左に下る坂道、③イーゼルの位置は路面から数メーター高い位置にある、かのように見えます。ChinchikoPapa様が推理さるた写生場所は上記②および③が当てはまらないように思われます。では「どこか?」ですが、たまたま近傍でありますが二の坂を半ば下った地点が概ね上記①から③を満たすようにも思えます。今回お示しの航空写真(写真下:左で言えば「遠望」の「望」の字の辺りにイーゼルを立て西方を見た状態でありますが、今一度作品をつぶさに見れば遠くの森(?)の木々の梢のラインがほぼ水平である点(三の坂の傾斜を反映した左下がりであるべき?)が現実に合わないようにも思われ、正直自信は持てません。近々現場に行き確かめたいと思います。

次に下落合事情明細図についてでありますが、同図は「不明の道」以外の点においてもかの地における実際の道路の形状を表していないように見えます。問題のカーブを北上した位置のY字路は「今はないけど昔はあった」のでしょうか?? 私自身に確たる意見がある訳ではないのですが感想として書かせて頂きました。長々と失礼致しました。
by マイケル (2006-08-24 09:32) 

ChinchikoPapa

マイケルさん、コメントをありがとうございました。
まず、1925年(大正14)にアトリエが完成したという日動画廊の画集記述ですが、ちょっと悩ましいですね。翌年の「下落合事情明細図」に描きこまれていないのは、できたばかりの家なのでタイムラグによる記載漏れ・・・という可能性もありますが、1936年(昭和11)の空中写真「目白文化村上空」に金山アトリエが写っておらず、空き地のままとなっています。これは、角度を変えた同年の「上落合上空」の写真でも、左手にある大きな空き地と連絡した、更地状態なのが見てとれます。
これが、1944年(昭和19)の空中写真になりますと、現状の金山アトリエの屋根がクッキリと確認できます。この3葉の写真を、記事末に掲載してみました。左から、1936年(昭和11)「文化村上空」、1936年(昭和11)「上落合上空」、そして1947年(昭和19)「文化村上空」です。
ご指摘の②は、実はいつも悩んでいる点なんですよ。それは、戦前戦後を通じての道路整備や宅地再造成により、どこまで傾斜が鈍角化されてきているのか?・・・というところで、いつもひっかかっています。佐伯の多くの作品が残る、たとえば八島さん前通り作品にも、画面とは一致しない傾斜が描かれていたりします。尾根道から宅地へ入る道の傾斜が、その代表的なものですが、いまはまったく傾斜が感じられないほど平地化されてしまっています。二ノ坂つづきの、大日本獅子吼会の西側にある坂道(遠望の岡?)、正面に「ほていや」デパートメント(伊勢丹)らしき建物が見える作品も、佐伯が描いた当時に比べ、現状では傾斜がかなりゆるやかになっているように見えます。
③の描画視点の高さについては、「草津温泉」で一度話題になりました。中ノ道の「草津温泉」作品のほうは、人の背丈よりも高い視点から描いており、道路の拡張あるいはカーブの鈍角化に関連し工事用の土砂が積まれていて、佐伯はそこへイーゼルを据えたのではないか?・・・といったような想像まで、ものたがひさんと交わしていました。この「く」の字カーブ作品については、わたしはそれほど視点が極端に高いとは感じませんでしたが・・・。
「下落合事情明細図」は、道のかたちは実際のものとはずいぶん異なり、だいぶデフォルメされていますが(^_^;、道筋自体の有無や連絡でこれほどハッキリとした誤り(?)は、ちょっと珍しいと思い末尾に触れさせていただきました。宅地化する際には、斜面には当然盛り土がなされているでしょうが、現場はほとんど断崖に近いような地勢ですよね。そこに、これほど太い道があったとは、わたしにも思えません。
by ChinchikoPapa (2006-08-24 13:13) 

マイケル

金山画集の該当部分をそのまま記させて頂きます。
「大正4年(1925年)41歳、2月上旬 下諏訪の桔梗屋に滞在して製作する。3月中旬に野尻湖に写生旅行をする。4月上旬、東京府豊玉郡落合町大字下落合字小上1080番地24号、通称阿比良村、(現在の新宿区中井2-13-19)に新築中のアトリエが落成し4月4日転居する。この頃大倉陶苑からの依頼により絵皿を描き始める。・・・・・」とあります。上記の「字小上1080番地24号」とは現在の「中井2-13-19」とは異なる場所だったのでしょうか?? 
一方、私事に関わることですが昭和4・5年頃、私の母(現在88歳)は今の中井において金山画伯に何度もお目にかかっており、金山先生は現存のアトリエに住んでおられたと思うとも言っております。混乱する一方です。昭和11年の航空写真の金山邸の敷地ですが、見ようによっては周囲に溶け込んではいるものの家の屋根が写っているよに見えなくはないような気もいたします。私も引き続き調べてみたいと思います。
by マイケル (2006-08-24 22:35) 

ChinchikoPapa

マイケルさん、ご丁寧にありがとうございます。なんとなく、謎が解けてきたように思います。上記の文章を読ませていただきますと、日動出版の画集は下落合の2つの住所を混同して記載しているように思います。
いま、手元に詳細な地番資料がありませんので、明日、改めてリプライをさせていただきますが、ちなみに、中井2丁目の現状アトリエの地番は、旧・下落合の2000番台の地番であって、1000番台ではありません。下落合の1080番とは、現在の下落合駅のある北側、妙正寺川の整流化工事や補助45号線(聖母坂)工事によって、その下になってしまったところです。
先に記しました外山卯三郎の自宅(外山秋作邸)も、実はまったく同じような経緯で、この工事計画を見越したのか、佐々木邸の隣りへ同様の移転をしてたりします。
by ChinchikoPapa (2006-08-24 23:00) 

マイケル

たびたび恐縮です。1000番であることについては私も疑念を感じておりました(2080の誤りではないかとも)。お教え頂きたいのですが「字小上」の地域とはどの範囲だったのでしょうか??聖母坂の辺りも含む広さだったのでしょうか??興味は膨らむばかりです。宜しくお願い致します。
by マイケル (2006-08-24 23:51) 

マイケル

続きです。「1080番地」は「2080番地」の誤りではの仮説の下、Yahooで
「下落合2080」を検索してみましたところヒットは2件、1件目はChinchikoPapa様の「10日本獅子吼会の西側坂(下落合2080界隈)「下落合風景」佐伯祐三の視線。」でありました(もう一件は帝銀事件に関わり三菱銀行中井支店がその住所にあったというもの)。改めてその絵(10)を見てみますとおっしゃる通り道の傾斜が大分異なります。私の頭の中のイメージから申し上げると、画伯のイーゼルの位置は獅子吼会西ではなく二ノ坂を僅かに下った地点(三ノ坂への抜け道が右手に始まる地点の手前=上記の写真下:左で言うと「本作品」の「品」字の辺り)に間違いないと思います。ここであれば道の傾斜の相違の問題も解決します。本題の金山画集の記述に戻りますと、その後の記述にも下落合の中で再び転居したということは書かれておらず、はやはり2080を1080と誤って書かれていると考えるべきではないでしょうか?? そので残る問題は航空写真の金山アトリエが「空地」か「屋根」かということになりますが・・・。
by マイケル (2006-08-25 09:38) 

ChinchikoPapa

マイケルさん、たびたびありがとうございます。
「豊玉郡落合町大字下落合字小上1080番地24号」という地番ですが、まず「豊玉郡」は「豊多摩郡」だと思います。お訊ねの「字小上」は、中井駅北側の目白崖線一帯、つまり現在の金山アトリエがある丘陵全体を指していますので、現在の所番地と一致しています。「1080番地」というのは先にも記しましたけれど、現在の場所だと下落合駅の北側あたりです。ここには下落合村の中心があり、明治~大正前期までは他地域に比べて家々が多く建っていてました。字は、「字本村」と呼ばれました。昭和初期に、妙正寺川の蛇行を整流化する工事が行われ、1931年(昭和6)の国際聖母病院の建設とともに補助45号線(聖母坂)が拓かれましたので、昭和の初めに1000~1100番地ぐらいまでの地番が、飛んでしまっているエリアです。
番地の下の「24号」というのも、悩ましいのです。1933年(昭和8)までは、たとえば「下落合****番地」あるいは「下落合字○○****番地」というように、その下の「号」は付きません。淀橋区時代を迎えても、たとえば「下落合2丁目****番地」の表記で号数は付かず、戦後もそのまま踏襲されていました。それが、たとえば「下落合2丁目**番地**号」という地番表記になるのは、現在の中落合地区では1965年(昭和40)ごろ、現在の下落合地区では1971年(昭和46)ごろに、表示改訂が完了しています。この号数の表記も、不可解な点です。
ご指摘のように、現在の金山アトリエの旧番地は「下落合2080番地」、淀橋区時代は「下落合4丁目2080番地」に間違いありません。でも、これを単純な誤記ないしは誤植としてしまえないのは、これとそっくりなもうひとつの事例があるからです。前回も記しましたけれど、外山卯三郎のアトリエ(外山秋作邸)の移転がそれです。
外山卯三郎のアトリエは、「下落合1047番地」にあったと書かれた本と、「下落合1147番地」にあったとする本と2種類あります。外山本人が書いている原稿にも、2種類の地番が登場します。当初、わたしは「下落合事情明細図」(1926年・大正15)を見ながら、外山邸は間違いなく1147番地にありますので、単純に前者の「1047番地」は「1147番地」の誤植ないしは誤記と思っていました。でも、書かれた周辺の様子の描写から、違う場所ではないかと思い始め1047番地を調べていきますと、先の1080番地と同様に補助45号線計画にひっかかっていた地域であることがわかりました。おそらく、外山邸は大正後期に一度、卯三郎のアトリエとともに引っ越しをしているのではないかと思います。
これと同じ現象が、会津八一についても言えます。会津は、いまでは霞坂の秋艸堂(下落合1296番地)から、第一文化村の秋艸堂(滋樹園・下落合1379番地)へ直接引っ越したように書かれた本が圧倒的に多く、八一本人も省略してそのような記述をしていますが、その間に第一文化村の南外れ(下落合1321番地)に引っ越しをし、改正道路(山手通り)計画にひっかかって、もう一度、第一文化村の中心部へと転居しています。こちらも同様に、「最終地」へ落ち着くひとつ前の下落合住所が、まったく忘れられてしまった事例です。
このような事例を考えますと、「字小上」は現状の所在地に引きずられた表記としても、「下落合2080番地」と「下落合1080」番地を、外山邸と同じようにいまでは混同して伝えられているいるのではないか・・・という疑念が、どうしても湧いてしまうですね。どちらも芸術家のアトリエで、川の下あるいは道路の下になって、消滅してしまった地番というのもどこか示唆的です。もちろん、1936年(昭和11)現在の空中写真に、家の影が見あたらないことも大前提としてあるのですが・・・。
by ChinchikoPapa (2006-08-25 11:54) 

マイケル

「字小上1080番地24号」の「24号」についてのご指摘について書かせて頂きます。空中写真(昭和11)における家影の有無の問題を残し、私は、金山は大正14年にそれ以前の居所、大塚坂下町から直接「字小上2080」(1080は誤りで)に越してきたとの見方に大きく傾いておりますが、番地表記に続く「号」については次のように考えます。当時においても不動産の登記等おいては「号」とは言わずとも4桁の数字につづき2桁(所によっては1桁あるいは3桁かも知れませんが)の数字が用いられたと解釈したいのです。林芙美子の四ノ坂下の邸宅は「淀橋区下落合4丁目2096番地24」だったようでありますし、私の生家(同じく2096)の公図においても番地以下に二桁の数字が続いていたように記憶します。直ぐに資料が出てこないのですが引き続き研究してみたいと思います。毎回のご丁寧なレスに心からお礼を申し上げます。
by マイケル (2006-08-25 16:14) 

ChinchikoPapa

上記のコメントを書いてから、明治末から大正にかけて作られた「豊多摩郡落合村大字下落合」地籍図を調べてみたのですが、たとえば「字東耕地」(字本村の東南隣りです)の地番に、下落合「935-1」「935-2」といった表記を見つけました。このハイフォンの次の数字が、「号」に変化したものでしょうか? ただ、「1」と「2」のみの記載しかなく、それ以上の数字、たとえば2桁の数字は見あたりません。
この地籍図ですが、残念ながら「字小上」のものは失われてしまったのか、教育委員会の資料(「地図で見る新宿区の移り変わり」1985年)には掲載されていません。ただ、地籍簿は昭和初期にも作成、あるいは書き替えられていると思いますので、それをぜひ見てみたいですね。わたしも、この書き替えによって1000~1100番地あたりの地番がどのように集約・統合されたのか、とても興味があります。
またお気づきの点がございましたら、ぜひお寄せください。心よりお待ちしています。
by ChinchikoPapa (2006-08-25 16:40) 

マイケル

今日、中井2丁目の実家で雑事を片付けている時に大発見をしました。大正15年の「下落合事情明細図」の原寸大と思われるコピーがあったのです。このタイミングでの発見に不思議なものを感じます。早速近時テーマの場所ならびにその周辺を仔細に見ました。で、ここ数日のある仮説がその通りであることを確認したのです。それは同図でChinchikoPapa様が「不明の道」とされている道はなんなのかに関わることです。答えは、① 上(北)の方から「不明の道」に続く道は「三ノ坂」そのものであること、②「描画ポイント」とマークされている道は現在の金山邸の前の道ではなく「二の坂」「三の坂」のそれぞれ中ほどを結ぶ抜け道であり、本来は「二ノ坂」においても「三ノ坂」においてももう少し坂を下った地点に描かれるべきで、「二ノ坂」の東方向に抜け「一の坂」中ほどに出る道とは同一線上に描かれるべきでないこと、の二点であります。こう判断した根拠は、(A)「嶌津」は嶌津源吉邸であり確かに三ノ坂の西一区画を所有していた。また(B)「音井」「小沢」と書かれたところにある「2015」は現在の路線価地図(これもたまたま手元にありました)にも現住居表示とともに記されている。(C)嶌津の右に書かれた「2095」はその後広域化された「2096」に吸収されたと読んで間違いなさそう、であります。
以上が仮説の確認でありますが、ここでまた大問題が発生します。金山邸の前の道(=獅子吼会の西側の道)がなくなってしまうということです。あの道は
その頃新たに拓かれた新道なのでしょうか?? 大正14年には既にあった筈なのですが・・・。
by マイケル (2006-08-26 21:10) 

ChinchikoPapa

わたしも、その原寸大(B全大)の地図を家に置いています。先ほど帰宅して、改めて「下落合事情明細図」と古い地図を見比べていて、下落合2080番地の頻繁な移動に気づきました。まず、明治期や大正初期の地図と、「事情明細図」の道筋がなんと“一致”していることです。つまり、「事情明細図」の道筋は、間違っていない・・・ということがひとつ。換言しますと、現在の金山邸の前の道、および「遠謀の岡?」の道が、1926年(大正15)に佐伯が描いた当時、丸ごと存在していない可能性が高いということです。(このあたり、古い地図を豊富にお持ちの、ものたがひさんが詳しく検証できそうです)
もうひとつは、「下落合2080番地」の大移動です。現在の金山アトリエのあるあたりが2080番地になるのは、おそらく昭和に入ってしばらくしてからです。それまで、明治時代は三ノ坂の道筋に沿って南北に細長く2080番地があり、大正期~昭和初期はニノ坂や三ノ坂への下り口のある尾根道(第二文化村の南端に接する道)に沿って、大日本獅子吼会のずっと上(北)が下落合2080番地となります。「事情明細図」でいいますと、道に沿った尾根上の「陸邸」にその番地が確認できますね。「1080番地」が「2080番地」の誤記だとすれば、いま現在の地籍簿に残る2080番地の金山邸ではなく、1925年(大正14)当時の2080番地の金山邸を探さなければなりません。昭和に入って、新たに拓かれた道とともに、「最新」の2080番地を探してもそこに空き地があるのは当たり前のことでした。おそらく、現在の位置に金山アトリエは建っておらず、当時の2080番地に建っていたと思われます。(あるいは、実際に1080番地かもしれません) それが、少なくとも昭和12~19年の間に、のちに偶然にも2080番地となる現在地へと移転しているものと思われます。
ちょっと、このテーマはすごく面白いですので、明治時代からの開発史も含めて詳しく調べてみたいと思います。(^^
by ChinchikoPapa (2006-08-27 00:09) 

ものたがひ

C.P.さま、こんにちは。マイケルさん、はじめまして。
「くの字カーブ」や「二の坂」についての、お二人のコメント大変興味深く拝見していました。実は私も、C.P.さまが、この「くの字カーブ」で描かれたとされる佐伯の「遠謀(笑)の岡」の描画ポイントについて、微妙な違和感をもっているのです。しかし、私の立てていた仮説は、現状の道では説明がつかない道の改変を含むものであるため、確証のないままコメントすることを躊躇していました。
ところが、なんと、お二人のコメントが今、まさにその問題に展開してきているではありませんか。私の現在の考察は、不十分な点があると思うのですが、この際、地元の方々のご意見を頂けると有難いと思いました。別館G.M.作業室、大急ぎで準備いたします。upできましたら、また、ご案内に参ります。かしこ。
by ものたがひ (2006-08-27 12:13) 

ChinchikoPapa

ものたがひさん、さっそくありがとうございます。
わたしのほうも、「遠望の岡」(上記コメントで誤入力してしまいました)と「く」の字カーブを見直してみます。実は、きのうニノ坂と三ノ坂、そしてその連絡道を歩き回って、昭和初期に新たに造成された道、そして新たな道と同時に逆に消されてしまった道を、改めて確認してきました。
この2作品につきましては、もう一度描画ポイントを特定しなおさなければなりませんね。そして、「遠望の岡」は大正期には存在しない大日本獅子吼会の西側坂でないとすると、ほていやデパートメント(伊勢丹)が正面に見える坂道は、たった1箇所しかないことも確認してきました。ちなみに、道幅の狭い三ノ坂ではありません。
by ChinchikoPapa (2006-08-28 00:17) 

マイケル

引き続いて幾つか書かせて頂きます。
「事情明細図」が概ね正確であり「遠望の道」と「金山邸前の道」が同図には描かれてないことはChinchikoPapa様ご理解の通りです。但し、同図の発行・印刷はご承知の通り大正15年10月ですが、描かれている道路が大正15年の「正にあるがまま」かというと「そうではない。1年や2年の時差があって当然」と考えるのが自然だと思います。その考えに立って私は「遠望・金山道」は大正13年頃までには開設されていたと考えます。何故か??くどいようで恐縮ですが、金山邸はやはり大正14年4月に今の地点に完成したと考えざるを得ないからであります。理由は以下の2点です。
① 改めて金山画集の年譜を仔細に読んでみますと、画伯の毎年の細か出来事が極めて詳細に書かれているにも関わらず、下落合内での転居はまったく書かれていない(前後の詳細さからして書き漏らしたとは思えない)こと。また大正13年の9月に着工した旨の記述もあること。
② 昭和11年の航空写真にある空き地は実は屋根の画像であり「家は建っていた」と判断されること、であります。

上記②について以下に詳しく書きます。
昭和11年版(文化村上空と上落合上空)では更地のように見え昭和19年版で初めて屋根が認められるという点でありますが、ChinchikoPapa様がお書きになった8月2日付けの松本俊介に関わる一文に添付されている昭和22年版の同地点を見ますと再び昭和11年版と同じような写り方に戻ります。
昨日現地に行き観察してきたところを踏まえ整理いたしますと、①同邸は殆ど敷地一杯に建設されている(西側玄関前に南北に細いスペースはあるが概ね「地形=屋根の形」)、② 屋根の傾斜が急峻で上空からのカメラにたいする反射はそもそも弱い、③昭和19年版で屋根とされる白い反射は敷地の南半分だけに相当し北側の半分は昭和11年版(文化村上空)とほとんど同じ、ということが言えます。上記①はあくまで現在の家の大きさと当時のそれとが大きく異ならないとの前提に立つ訳ですが、半分が倍になったような増築、それも獅子吼会側への増築(ガラス窓が大きく設けられたアトリエ部分の増築)はなされていない(やはり当初からある)と思われるのです。
仮に上記の推理が正しいとしても大正14年完成を立証するものではありませんが画集の記述とともに「そうなのだ」と確信する次第なのであります。なお、現在の同邸をGoogleMapの衛星写真で(解像度が昭和11年版あるいは同22年版と同程度になる高度にセットし)見ますと、カラー化され赤く写ってはいますが形状・雰囲気とも昭和11年版あるいは12年版とほとんど同じに見えてしまいます。そう見えるのは私だけでしょうか??
また日を改めて地番表示について続報を書かせて頂こうと思います。

PS ものたがひさん、今後とも宜しくお願いします。
by マイケル (2006-08-28 00:56) 

ものたがひ

一日の間に、事態がいろいろ進行している様です(笑)。すぐに現場に行けるお二人が、羨ましいです。でも、とりあえず別館の方でも考えをupいたしました。どうぞ、お越し下さい。
by ものたがひ (2006-08-28 11:54) 

ChinchikoPapa

マイケルさん、詳細なコメントをありがとうございます。
わたしも昨日、昼間は二ノ坂と三ノ坂界隈をウロウロし、帰ってから明治・大正・昭和の各地図と首っ引きで調べておりました。確かに、おっしゃるように「事情明細図」は1926年(大正15)10月現在のリアルタイムのものではありません。お隣りの「長崎町事情明細図」もそうですが、おそらく制作リードタイムにいくらか時間がかかっているものと思います。ただ同時に、下落合の「事情明細図」ばかりでなく、周囲地域の「事情明細図」、たとえば長崎町(大正14)、高田町(大正15年)、池袋(大正15年)とわずかな期間に、驚くほどのスピードで多数仕上げられていったのも事実です。同じ年でも4月と10月の出版が多いので、6ヶ月(半年)が「東京市町事情研究会」の制作サイクルではなかったかと思われます。
「事情明細図」も含めて、大正~昭和初期の同所の地図を記事末に掲載しました。まず、①1923年(大正12)の「早稲田・新井1/10,000地形図」。ここには、二ノ坂と四ノ坂は拓かれているものの、三ノ坂が存在しません。二ノ坂上は、この地図によれば原っぱないしは畑が広がっています。
②1925年(大正14)の「豊多摩郡落合町1/5,000」、つまり佐伯が「遠望の岡」や「く」の字カーブを描く前年の地図です。三ノ坂の原型ができかかっているのがわかります。そして、下落合2080番地はこの三ノ坂の西側に沿って、南北に長くつづいているのがわかります。つまり、大正14年現在には2080番地は現在の場所から、西へ100mほど離れた三ノ坂と四ノ坂の中間にあったということになります。
③1926年(大正15)、翌年の「下落合事情明細図」です。ここでは、前年の道筋にさらに新たな道が増えていますが、基本的な形状は前年のまま変わっていません。ところが、下落合2080番地がなぜか1年のうちに大きく移動し、大日本獅子吼会の北側=五叉路のある尾根道に沿った南斜面に飛んでいます。この現象は、昭和初期の地図へも受け継がれます。つまり、この時期になんらかの大きな変化が、地番まで移さなければならなかったほどの大規模な変動がこの斜面で起きている・・・ということになります。それは、西武電気鉄道の客車運行と中井駅開設を間近にした、斜面全体の宅地造成にともなう土地の大改造ではないか・・・と、わたしは想像しています。ちょうど崖線下を通る中ノ(野)道の、拡幅や直線化の大規模な工事の時期と期を一にしています。(このことにつきましては、「草津温泉」のページでものたがひさんとともに触れています) 二ノ坂の下のほうを描いた佐伯の「下落合風景」にも、コンクリートで造成されたばかりの住宅のヒナ壇敷地が描かれていました。
④1929年(昭和4)に作られた、「豊多摩郡落合町全図」です。この時期までに大規模な造成工事がほぼ終了したものか、現在の道筋とほとんど変わらない姿になっています。ただし、下落合2080番地は南側に拡げられたものか、大日本獅子吼会までが含まれているようですが、金山アトリエの地番は大正14年当時とほぼ同じ、2015番地のままとなっています。
(つづく)
by ChinchikoPapa (2006-08-28 13:19) 

ChinchikoPapa

(つづき)
わたしは、金山アトリエは当初、下落合1080番地(この地番の界隈も土地の大改造が行われました)にあったのではないか?、あるいは例え2080番地の誤記による字小上にあったにせよ、現在の場所とは異なるのではないか?・・・という考えに傾いています。それは、おそらく大正14年~昭和初期にかけての、地形図のあたかも等高線を変えてしまうほどの大規模な宅地造成が行われているように思えるからです。
詳細に拾遺された年譜、たとえば先にご紹介しました会津八一の「秋艸堂」(1回目の移転)や外山卯三郎のアトリエの移転=下落合内での近隣移動についても、年譜には記載されていません。それが短期間だったから省略されているのか、あるいは地番が消滅して編集者が確認できなかったからなのか委細は不明ですが、他の人物たち、たとえば長崎から下落合、下落合から長崎へと頻繁に転居した画家たちの例を見ても、それは珍しいことではありません。つい先日も、鶴田吾郎の長崎移転ルートで二度と思われていた転居=地蔵堂アトリエ→要町アトリエですが、実は三度=地蔵堂アトリエ→浅間神社付近→要町アトリエと転居していたのが判明したばかりだったりします。もちろん、画集の年譜には二度目の引っ越しについては触れられていませんでした。
それから、空中写真についてですが、改めて拡大したものを記事末に掲載いたしました。1947年(昭和22)の米軍による空中写真とも、わたしは対比させて検証していますが、どうしても平坦な屋根には見えないのです。それは、敷地の中に少なくとも3つの突起が確認できるからで、これが土地に生える樹木なのか、あるいはなんらかの資材が置かれているのかは不明ですが、のちに写された金山邸の屋根の形状とは明らかに異なるからです。
by ChinchikoPapa (2006-08-28 13:56) 

ChinchikoPapa

ものたがひさん、こんにちは。
アップが前後したようですね。さっそくうかがって、TBさせていただきます。
by ChinchikoPapa (2006-08-28 14:00) 

ものたがひ

はい、前後しました。
記事末に追加して下さった1929年の、金山邸の場所が2015番地だった地図は、私、参照し忘れていましたが、途中経過をはっきりさせる、とても嬉しい資料です。同年の地形図では、同所は2080番地になっているようですので、地番の変化は二つの地図のデータが集められた頃といえるでしょうか。
また、私も記事末に、空中写真の金山邸についての解釈を追加いたしました。空中写真の読みは、ホントやっかいですが…。
by ものたがひ (2006-08-28 15:16) 

ChinchikoPapa

1925~26年(大正14~15)の間に、一度大きな地番の振り直しがあり、1929年(昭和4)にも、もう一度大きな地番変更(金山アトリエ2015番地→2080番地等)があったようですね。これは想像ですが、宅地造成の工事計画が策定された、1925年(大正14)に一度、大規模な地番変更が行われ、工事が最終的に終了して造成地が具体的な姿を現したときにもう一度、実際の現地に沿った地番の付加が行われた・・・のではないかと思います。いまでも新興住宅地では、造成前と造成後との地番変更がときどき見られますね。
それにしても、“ムウドンの丘”がこれほど大改造されているとは思いませんでした。印象や現在の記憶だけで描画ポイントを決めてはいけない、格好の反面教師記事となりました。そういう意味では、マイケルさんとものたがひさんに、深謝深謝です!<(_ _)>
by ChinchikoPapa (2006-08-28 17:31) 

ものたがひ

C.P.さま、おはようございます。別館の方へも詳細なお返事を頂き、ありがとうございました。二ノ坂ですか…。これから(笑)、よく考えてみます。とりあえずの、御礼まで。
by ものたがひ (2006-08-29 06:57) 

ChinchikoPapa

わたしは、「遠望の岡?」は二ノ坂に間違いないと思うのですが、この記事の「く」の字カーブの道が振り出しにもどってしまい、また地図と空中写真とを眺めています。(笑)
by ChinchikoPapa (2006-08-29 12:07) 

ものたがひ

『この「くの字カーブ」には見憶えが…。』で取上げられた、佐伯の絵自体へのコメントを、別館の方にupいたしました。坂道をあちこち登り降りしている気分になってまいりますが、どうぞ、お越し下さい。
by ものたがひ (2006-08-29 17:59) 

ChinchikoPapa

さっそく、「縁石の草」と「タテの画」モノクロバージョンをアップしました。
リプライは、ものたがひさんのブログコメントで。
by ChinchikoPapa (2006-08-29 18:52) 

ChinchikoPapa

中井駅北側の「ムウドンの丘」を、一度チャラにして探してみると、同じような道が見つかりました。1947年(昭和22)の空中写真ですが、1936年(昭和11)の写真にも家々が写っているのがうかがえます。
by ChinchikoPapa (2006-09-01 23:38) 

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