下落合に水道が引かれた日。 [気になる下落合]
いまでも、下落合のあちこちには古井戸が残っている。さすがに飲料水として使われているのはないだろうが、生活水としては用いられているようだ。もともと、目白崖線の随所には湧水源があり、地中にはゆたかな地下水脈が縦横に流れていた。下落合の町内ほとんどが井戸水を使っていたが、唯一、目白文化村だけは上下水道が引かれていた。でも、この上水道はもともと水量が豊富な地下水をポンプで汲み上げ、一度水道タンクに貯めてから圧力をかけて各家庭へ配水していたので、厳密にいえば井戸水と同じ地下水だったことになる。
下落合の各家庭に水道が引かれたのは、関東大震災の直後から計画されていた「荒玉水道」が、1928年(昭和3)の主線の通水試験を経て、その後の水質検査のあと、幹線の埋設や野方配水塔Click!の完成(1929年・昭和4)を待ってからではないかと思われる。※ でも、幹線ではなく個別の家々へ細かな支線が引かれるのは時間がかかるから、数年のタイムラグは考慮したほうがいいかもしれない。新たに造成・開発された住宅地には、積極的に水道が引かれただろうが、古くから住宅街が形成されていた目白駅に近い下落合では、戦後まで清廉な井戸水を利用していたお宅も少なくなかった。
『荒玉水道抄誌』(荒玉水道町村組合)が発行されたのが1931年(昭和6)だから、この年以降に下落合へは水道による給水が始まったものと思われる。※ 荒玉水道の全線が竣工したのは、『抄誌』が出版された同年だといわれている。
※落合町への給水は、実際には早めの1928年(昭和3)11月1日にスタートしている。
大規模な水道事業を始めるにあたり、東京府荒玉水道町村組合が結成されて、各町村から水道事業へ協力する組合員が選出された。落合町からは、当時の町長だった松崎章太郎と工学博士の舟橋了助、そして学務委員の早川安次郎の3名が選ばれている。この中で、舟橋了助は作家・舟橋聖一の父親であり、『落合町誌』(1932年・昭和7)では本人ばかりでなく、珍しいことに、さわ子夫人とともに写真入りで紹介されている。
ちょっと余談になるけれど、『落合町誌』に掲載された多くの人物写真の中で、このさわ子夫人だけがたったひとり、唯一例外の女性だ。このあたり、下町と山手の『町誌』を比較するのも、面白いかもしれない。武家社会山手では徹底して、女性は夫の影になって表面には登場しない。また、人物紹介の項目でもほとんど女性が存在しない。『落合町誌』では、学校関係の役員と助産婦などの項に登場しているのみだ。もうひとりの例外として吉屋信子がいるが、写真は掲載されていない。
東の多摩川を水源とし、西の荒川へと抜ける荒玉水道が落合町に給水されたのは、長崎町字五郎窪4264番地(現・南長崎6丁目)にあった籾山牧場の前へ、第7幹線と呼ばれた主線からの幹線鉄管が埋設されてからのことだ。おそらく、1926~27年(大正15~昭和2)ごろのことだろう。籾山牧場は、以前ここでご紹介した安達牧場Click!の少し西にあった、豊島区でも最大クラスの牧場だ。やがて、1930年(昭和5)に野方へ水道配水塔が建設され、配水管に水圧がかけられるようになってから、個々の家庭への支線へ通水が始まったのだろう。
落合町へと抜ける第7幹線について、『荒玉水道抄誌』にはこう書かれている。「府道第二一号線ヲ東南ニ進ミ落合町下落合ニ出テ省線ヲ横断シ学習院前ヨリ小石川区境界ニ至ル」。荒玉水道の幹線が、主要道路沿いに埋設されていたのがわかる。この幹線から、さらに枝分かれした支線が、落合町の各家庭までとどくのはやや時間がかかっただろう。地域やエリアによっても、かなりのタイムラグが発生しているのかもしれない。
関東大震災の直後より、下町から山手へ移住する人々が激増したため、下落合では大量の地下水消費により井戸の水位が下がり、さらに深く掘らなければ水を汲み上げられなくなっていった。中には、枯渇してしまった井戸もあったようだ。下落合の井戸の水量が回復するのは、荒玉水道による給水が始まり、しばらくたってからのことだった。
■写真上:1931年(昭和6)に、東京府荒玉水道町村組合が出版した『荒玉水道抄誌』。
■写真中:左は、落合町水道組合員の舟橋了助。右は、最近まで使われた下落合の古井戸。
■写真下:建設中の荒玉水道の配水塔。鉄筋で建築中の写真は、板橋の大谷口配水塔。右下の写真は、完成直後の野方配水塔。大谷口配水塔は、つい最近解体されてしまった。
burizaさん、nice!をありがとうございました。<(_ _)>
by ChinchikoPapa (2006-09-23 23:33)
こちらにも、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2011-08-16 10:06)