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二ノ坂から見える茶色いビル。 [気になる下落合]

 

 佐伯祐三の『下落合風景』シリーズに、二ノ坂を描いた作品が2点残っている。坂上から新宿方面を眺めた「遠望の岡?」Click!とともに、二ノ坂の最終カーブClick!を描いた作品だ。この最終カーブからの眺めで、正面に見えている茶色い建物を、わたしは安易に「ほていや」デパートメント(のちの伊勢丹デパート)としていた。でも、この角度からだと南南東の方角となる新宿東口は、実際には見えない。
 実際に、二ノ坂のカーブに立って方位磁石を置いてみると、針は東南東の方角をさし、新宿東口の方角へは向かない。むしろ、高田馬場駅から早稲田あたりの風景が見えているようだ。「ほていや」デパートメントを描いたとみられる二ノ坂上の「遠望の岡?」の茶色いビルディングと、二ノ坂の最終カーブから見える茶色い建築物とを拡大して比較すると、前者が横長の立方体に対し後者はやや複雑なデザインをしていて、確かに形状が異なっている。では、二ノ坂の最終カーブから見える、この茶色いビルはなんなのだろうか?
 
 1930年(昭和5)の「早稲田・新井1/10,000地形図」を使って、佐伯がこの絵を描いた1926年(大正15)年現在に建っていたと思われる、規模の大きな建物に印をつけてみた。1は、現在の下落合駅の南側にあった「東京護謨株式会社」の大きな工場。2は、神田川沿いの「戸塚小学校」。3は、小学校近くの工場群。4は、田島橋の下落合側にあった工場群。5は、田島橋の南詰めにある「東京電燈目白変電所」。6は、早稲田通り沿いの真新しい「戸塚第二小学校」。7は、「早稲田大学」だ。同時に、1936年(昭和11)に撮られた上落合上空の写真を使って、これらの建物をポインティングしてみよう。
 わたしは、周囲に高圧送電線の鉄塔がいくつも見られることから、茶色い突出した建物を5の東京電燈の「目白変電所」と想定してみた。目白変電所は空襲でも崩壊せず、戦後はビルの意匠をやや変え、規模が縮小された建屋を現在でも見ることができる。松本竣介の『立てる像』(1942年)Click!の背後にも描かれた、あのコンクリート建物だ。


 1の東京護謨の工場は、昭和初期に大きな火事を出し、昭和10年前後に建物がリニューアルされるようだけれど、大正末にはそれほど規模の大きな建屋ができていたとは思えない。2の戸塚小学校は、いまだ古い校舎のまま。34の工場群も、中小の染物・製薬・化学・鉄工の作業所で、これほど大きなビル状のものは存在しなかったと考える。すると、視線の中央に位置して突出して見えるのは、目白変電所以外に残らないことがわかる。この風景には高圧鉄塔がいくつか描かれているが、鹿留発電所(山梨県)からくる東京電燈谷村線の送電線だ。
 では、建物の左右にある、明らかに目白変電所に比べて遠景に思われる建物はなんだろう? 右手の塔のような突起物のある建物は、戸塚第二小学校あたりの方角なのだけれど、小学校の校舎がこのようなデザインだったとは考えられない。そのさらに向こう側にある、早稲田大学の本学キャンパスの建物だろうか? 当時は高い建築物がほとんどなかったせいで、新宿東口のデパートが想像以上に大きく見えている。とすれば、数ヵ月後に竣工する建設中の早稲田大学・大隈講堂(1927年築)のように見える。ニノ坂から眺める「ほていや」デパートと大隈講堂は、ほぼ等距離だ。また、左手に見える、白くて平べったい建物は、ちょうど神田川は北岸の高田町あたりで、なんらかの工場の建物のようだ。
 
 現在、二ノ坂の描画ポイントClick!からの眺めは、まったくきかなくなっている。もし、遠望がきいたとしても、これらの建物はビルの谷間に埋もれて、どこにあるのか探すのさえ容易ではないだろう。東寄りの風向きによっては、わが家にときたま大隈講堂の古めかしい鐘の音が、かすかに聞こえてくることがある。

■写真上:ともに、佐伯祐三『下落合風景』(1926年・大正15)の部分拡大。は、二ノ坂の最終カーブから眺めた遠景。は、二ノ坂の上から眺めた遠景。
■写真中上は、二ノ坂の最終カーブの現状。は、描画ポイントと思われる場所に置いた方位磁石。針の向きから、高田馬場~早稲田方向が見えていることがわかる。
■写真中下は、「早稲田・新井1/10,000地形図」(1930年・昭和5)。は、1936年(昭和11)の空中写真。この時点でさえ、大きな構築物が数えるほどしかないのがわかる。
■写真下は、新宿駅方面から見た昭和初期の「ほていや」デパートメント(左上)。のちに、伊勢丹ビルが建設される場所だ。道路をはさんで、右手に建設中なのは新宿三越。は、設計者・佐藤武夫によって大正末に描かれた、大隈講堂の完成予想デッサン。1947年(昭和22)二ノ坂
1936年(昭和11)高田馬場駅


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豊田

>東寄りの風向きによっては、わが家にときたま大隈講堂の古めかしい鐘の音が、かすかに聞こえてくることがある。

これ本当ですか?私の仕事場は戸山キャンパス内なのですが,戸山キャンパス内で大隈講堂の鐘の音を聞けてもかすかーな音です.自宅が西池袋なので立教大学の鐘の音は時々かすかーに聞こえることがあります.大隈講堂と戸山キャンパスの距離,立教の鐘と自宅の距離が同じくらいなので,鐘というもんは騒音の激しい現代では,あんあまり遠くへは広がらん物だと思っていました.その何倍もの距離なので,大隈の鐘が,落合まで聞こえるとは全く想像できないのですが....斜面なので音を受けやすいのかもしれないですね.
by 豊田 (2006-10-06 07:30) 

ChinchikoPapa

わたしも最初は空耳だと思ったのですが、冬の東風の吹く夕方、空気が澄んで十三間通りがわりと静かな土曜日など、3階のベランダにいて聞こえたことがありました。目白崖線が音をよく反射するのか、大晦日の午前0時に鳴り響く東京湾の汽笛の音や、隅田川の花火大会の音が意外に大きく聞こえます。特に、夏は「雷鳴かな?」と思うと、たいがいどこかの花火ですね。
先日も、薬王院近くにお住まい(やはり崖線斜面です)のおばあちゃんと話をしていましたら、「子供のころは、早稲田大学の鐘がときどき聞こえた」とおっしゃってましたので、空耳ではなかったんだ・・・と安心しました。でも、不思議なことに、小学校などのスピーカーで流れる機械的なチャイム音はあまり遠くまで響かず(実際に直近の小学校以外は聞こえません)、キーンコーンカーンコーン・・・とほんとうの鐘を叩く金属音は、けっこう遠くまで響くようです。
by ChinchikoPapa (2006-10-06 10:46) 

ものたがひ

C.P.さま、こんにちは。「遠望の岡?」と「二ノ坂最終カーブ」の両作品にある「茶色いビル」は、確かに拡大すると、異なるものを描いた様に見えますね。筆触のほんの僅かな加減で形が変わる、遠景の小さく見える建物ですが、違いを出す佐伯の意志を感じます。(それを、共によく見ないと違いが分からない遠景の中央に置く、悪戯心も感じてしまうのは読み過ぎでしょうか?)
私が、もう一つ興味深く思ったのは、「大隈講堂」とされる淡い塔の様なものがある建物です。C.P.さまは、「数ヵ月後に竣工する建設中の早稲田大学・大隈講堂(1927年築)」の可能性を示されていますが、この「数ヶ月」は要チェックですね。一寸調べてみたら、大隈講堂は、1926年2月に着工、1927年10月20日に落成、とありました。
佐伯の「下落合風景」シリーズには、描画時期を、2度目の渡仏直前の1927年の6月位まで下げられるものもあるかもしれない、と私は考えています。「下落合風景」は、「自筆メモ」に影響されて、雪景色以外は、1926年とされる事が多いようですが、この「二ノ坂最終カーブ」の場合、あの淡い建物が大隈講堂であるならば、1927年に入ってから描かれたと考えた方が自然な感じがします。姿を現したばかりの大隈講堂を見付けて描き込んだのだとすると、面白いですね。
by ものたがひ (2006-10-06 19:13) 

ChinchikoPapa

ものたがひさん、こんばんは。
変電所の右手の建物ですが、最初は大隈講堂とは考えませんでした。かたちがなんとなく尖塔のようで異なるし、色も違います。でも、これが建築工事で養生がなされた講堂かもしれない・・・と思い直したんですね。特に時計台の上の鐘楼は複雑なデザインをしていますので、工事の際はかなり外観も特異になったのではないか・・・と想像しています。
あと、この方面にこのような高い建造物は、ほかに見当たらない・・・という理由もありますね。今度、大隈講堂の工事中の写真があれば、確認してみたいと思っています。
by ChinchikoPapa (2006-10-06 21:44) 

マイケル

C.P.様 ご無沙汰を致しました。大隈講堂とは素晴らしい発見をなさいましたね。とことん解明されんとするご研究姿勢には脱帽です。
ところで小生は以前から「二ノ坂の最終カーブ」とされる作品に描かれた「坂の右側」がどうしても納得できずにおります。つまり、あの位置の二ノ坂は「切り通し」ではなく、坂の路面から外れた右手は直ぐに中の道へとくだる「下り斜面」と理解します。そこに描かれたあの壁の様な四角、それとその先にあるそこそこの高さの石積みのようなものはなんと理解したら宜しいのでしょうか??二ノ坂のあの位置にあのようなものがあり得たとはどうしても想像できないのです。。お考えをお聞かせ頂けると幸いです。 
by マイケル (2006-10-06 23:59) 

ものたがひ

C.P.さま、姿を現したのでは無く、養生中ですか?(笑)
当時は何で養生したのでしょう! 止め処なく問いが生まれます。でも、養生は中身の複雑な形状を反映するのでしょうか。私は、どちらかというと形を単純化するのかと思っていました。いずれにせよ、左手に塔状のものがある、あるいは左側から出来つつある建築物のようです。
色味については、かなり遠方の場合、固有色よりは淡くなる、という見方も可能かと思います。
マイケルさん、お久しぶりです。別館に進捗がなくて、すみません。「坂」はホントに手強いですね。この「二ノ坂・最終カーブ」右手の壁の様な四角については、「遠望の岡?」の突き当たりの状況と整合性があるのか、私も考えていた所です。
by ものたがひ (2006-10-07 09:48) 

ChinchikoPapa

マイケルさん、こんにちは。
いま住宅を建てるとき、接道との段差をできるだけ少なくして敷地を造成し、その上に建物を建てるのが一般的ですが、大正の当時はどうだったのか?・・・というテーマがひとつあると思います。坂道のような斜面の場合、両側の宅地はできるだけ掘削して坂道路面との段差をなくす・・・という造成法ではなく、できるだけ盛り土をして宅地用の平面土地を確保する・・・という手法のほうが多いように感じます。
たとえば、目白文化村で唯一、急な坂道のある第四文化村でも、坂道に沿って路面との段差がなくなるよう宅地を掘削するのではなく、かなりの盛り土をして大谷石による高い擁壁が築かれているのを、いまでも目にすることができます。
これは、路面が赤土のままで現在のように舗装されておらず、排水や下水の設備があまり整備されていなかったせいで、“水はけ”あるいは“湿気よけ”から、住宅の敷地はできるだけ高めに造成するという、住宅建設の考え方(工法)ではなかったかと思います。
ニノ坂の最終カーブに見える、コンクリートあるいは大谷石による擁壁も、当初はこのように路面とは大きく落差をつける工法で、宅地が新造成されたのではないかと考えました。でも、時代が下るにつれ、排水や下水も完備されて水まわりの心配がなくなると同時に、路面とはできるだけ段差をつけずに盛り土ではなく、掘削によって宅地平面を確保する工法に移っていったのではないかと考えます。
おそらく、昭和に入ってから建て替えのときに、掘削による平面確保で崩されてしまった擁壁が、かなり多いのではないかと思います。
by ChinchikoPapa (2006-10-07 10:15) 

ChinchikoPapa

わたしも、書いてから当時の養生とはどんなものだったのだろう?・・・と想像していました。今日のような、青いビニールシートではないですね。(笑) 軍事関係の建物や造船所では、棕櫚縄や網が目隠し養生として使われていたようですけれど、民間の建物では、さて・・・。
ただ、水道塔や新宿三越の建設工事の写真を見ると、細かな足場だけで養生は使われておらず、大隈講堂も足場だけだったのかもしれません。ただ、おそらくは地上で製作したと思われる時計台の上に据えられたコンクリート装飾、そして大きな複数の鐘をどうやって上まで吊り上げたのか・・・という問題があり、移動クレーン車のない当時、時計塔の上にかなり高い吊り上げのしくみを備えた構造物を造ったのではないか・・・と想像します。
今度、工事写真を見つけたら、こちらでご報告しますね。
by ChinchikoPapa (2006-10-07 12:02) 

マイケル

C.P.様 こんばんは。再び二ノ坂の「くの字カーブ」より下の部分ですが、坂の南側(佐伯作品で言えば右側)には中の道に合流する直前を除き昭和30年代までそれらしき建物は建っていなかったように思われるのです。確かに戦前には建っていたが戦後には建ってなかったという可能性はあるのですが、以前C.P.様がアップされた昭和11年の航空写真にも坂に沿って建つ建物は写っていないように見えます(中の道に接した家は一軒写っていますが)。また仮に最大限の水平面を確保するために盛り土をしてあったとすると、その土地の南限から中の道へかけては大変に急峻な傾斜あるいは高い擁護壁が必要かと思いますが、同航空写真あるいは昭和4年・6年の地図(一万分1)にそのようなものは読み取れません。やはりどうしても疑問が残るのです。
それから大隈講堂の件ですが、二ノ坂中腹あたりから東を望むと当時は確かにC.P.様が推理されるように時計塔の上部が見えたかもしれません。ですがその場合、地図上の位置関係からすると塔の下部を隠すものは山手線の高架あるいは高田馬場駅のプラットホーム(ホームに屋根があったなら屋根)であるべきと思うのです。だとすると作品の上でも水平に伸びるかなり長い構築物が描かれてそれにより時計塔の下部が隠れて然るべき(高架は恐らく目白変電所の背後にも)と思うのですが如何でしょうか??
などと書かせて頂けるのもGoogleアースのお蔭です。本当に便利な世の中になりましたね。
by マイケル (2006-10-07 22:49) 

ChinchikoPapa

マイケルさん、こんばんは。
まずニノ坂のカーブの件ですが、当時の宅地造成の手法として、敷地を造ったあと住宅を建てて販売(建て売り)する・・・という手法はとっていません。目白文化村もそうですが、土地を造成して販売したあと、購入者が自分で好きなように家を建てるという手順です。アビラ村の金山邸も、満谷国四郎とともに隣り同士で敷地を購入し、関東大震災を挟んでしばらくしてから建設資金ができると、ようやくアトリエ付き住宅を建ててますね。満谷のほうは、家を建てないままやがて土地を手放してしまいますが。(のちに、現在の下落合4丁目に落ち着きます)
また、土地を購入後には数年内に家を建てなければならない・・・というような、今日的な規約も存在しませんでした。だから・・・というべきでしょうか、目白文化村の後半の販売では、投機めあての不在地主が続出してしまい、とうに完売しているにもかかわらず、昭和10年代になっても第三・第四文化村では半分が空き地のままでした。関東大震災の影響で、被害が少なかった山手の土地価格が急騰したことにもよりますね。大正13年ごろに販売された第三文化村でさえ、すでにそのような状況ですから、大正末から昭和初期にかけて販売されたであろう二ノ坂の周辺も、特に西武線が敷かれ中井駅ができることとも相まって、かっこうの投機目的に利用されたのではないでしょうか? だから、1936年(昭和11)現在でも家々が見られない(第三文化村も同様です)・・・という可能性が、きわめて高いように思います。
ちなみに、戦後は坂に沿って家々の姿が確認できます。記事末に、1947年(昭和22)当時の空中写真を掲載しました。

>確保するために盛り土をしてあったとすると、その土地の南限から中の道
>へかけては大変に急峻な傾斜あるいは高い擁護壁が必要かと思います
>が、同航空写真あるいは昭和4年・6年の地図(一万分1)にそのようなも
>のは読み取れません。

この擁壁ですが、二ノ坂沿いは両側ともほぼ崩されてしまって消滅してしまっていますが、造られた当時のものが現存しそのまま見ることができます。わたしも気になって、先日確認してきたばかりです。この擁壁は大谷石ではなく、コンクリートで築かれていてかなりの高さ(2階のベランダぐらいの位置)で西へ伸びています。中ノ道を、二ノ坂下から四ノ坂下方面へ歩かれる際、家々の隙間から急峻な斜面側をずっとご覧になってみてください。とても古いコンクリート壁が途切れがちながらもつづいているのが、すぐにも発見できると思います。おそらく、中ノ道から見える擁壁の一段上にも、もうひとつ同様のコンクリート擁壁がある(あった)はずですが、いまは家々がふさいで(すべて崩されてしまったのかもしれません)見ることができません。
山手線らしきものが見あたらないのは、実は新宿東口の「ほていや」デパートの場合も同じなのです。新大久保駅(高架)も新宿駅(高架)も、今日的な雰囲気の駅舎やホームを確認することができません。おそらく、戦前の高田馬場駅舎はかなり低い建物だったと思います。いえ、戦後に建てなおされた駅舎も、おそらく二ノ坂から見たら一般の住宅にまぎれていたのではないでしょうか? 1936年(昭和11)現在の高田馬場駅の空中写真を、記事末に併せて掲載しました。高田馬場駅に比べて、当時の目白変電所の建物がいかに大きかったかもご確認いただけるかと思います。また、下記のURLは、戦後に建てなおされた高田馬場駅の2葉です。
http://blog.so-net.ne.jp/chinchiko/2005-03-11-1
by ChinchikoPapa (2006-10-08 01:14) 

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