「西洋館」と「日本家屋」の違いは? [気になる下落合]
たとえば、上のイラストを見て「西洋館が建ちならぶハイカラな街並み」と表現する方は、おそらく現在ではひとりもいないだろう。ところが、これが大正中期に出現していたら、間違いなく「西洋館」だらけの街というイメージが形成されたに違いない。80年の時代経過によって大きくズレてしまった、住まいのデザインを見る座興軸の移動がきょうの課題。けっこう重要なことがらにもかかわらず、案外気づかれずにいる大きなテーマではないだろうか。
戦前の「西洋館」と「日本家屋」の違い、今日的な目から見て分類しようとすると、「洋」なのか「和」なのか迷いはしないだろうか? たとえば、いま○○ホームや□□ハウスといった住宅展示場へ出かけて見るモデルハウスからは、「西洋館」を見学するという意識は生まれないだろう。どれもこれも、「日本の住宅」と映るはずだ。「洋風住宅」という意識さえ、もはやないかもしれない。いまの時代を生きている方、つまり今日的なデザインの家々をすっかり見馴れてしまった方に、昔の住宅の記憶を語っていただくとき、「和」と「洋」との分類軸がかなり移動してやしないか?・・・というのが、ずいぶん前から感じていた疑問だ。
佐伯祐三が、好んで描いた八島さんちClick!。あるいは、第一文化村の水道タンク近くに散在する家Click!。これら家々の意匠は、「西洋館」なのか「洋風住宅」なのか、それとも当時から流行していた、日本風にすでに消化されたあとの「文化住宅」の範疇、つまり当時の最先端をいく「日本家屋」の一種なのか・・・? 建築の専門家や考証家が見れば、ことさら迷わず明確に規定できるのかもしれないが、当時の記憶をたぐる一般の住民のみなさんには、そのような視点は存在しない。それに気づいたのは、お年寄りに昔の文化村のことをうかがっているとき、「あそこの家は洋館だった」という方と、「あそこは和洋折衷の文化住宅で和風だよ」という方と、同じ屋敷を表現するのに正反対の齟齬が生じたからだ。今日的な感覚をもとに振り返ると、それが「洋風」なのか「和風」なのか、きわめて曖昧なことになってしまうということ。特に「和洋折衷」の住宅は、いまでは「日本家屋」として思い出されることが多いのだ。
第一文化村に建っていた、ライト風建築で有名なK邸(左)。あまりにモダンすぎて、デザイン的な古さを感じさせない。まるで、いまの住宅展示場にでもありそうな、現代的な雰囲気さえ漂わせていたお宅だ。これは、当時では間違いなく「西洋館」として記憶されただろう。もうひとつのカラー写真は、ヤマキホームが販売する「日本の木の家」(右)。今日的な目から見れば、決して「西洋館」とも「洋風住宅」とも呼ばれず、この家は「日本家屋」の一種となってしまう。この当時から現代への意識のズレが、けっこう重要な意味を含んでいるのではないだろうか。1922年(大正11)に出現した第一文化村のモダンで最先端の街並みClick!が、当時の人たちにすれば西洋館だらけの異様な街並みに見えたかもしれないが、今日の視座からすると、ともすれば東京の郊外にある新興住宅地のようにも見えてしまう。それほど、わたしたちの街並みを見る感覚、家々を眺める和洋デザインの軸足は、「洋」のほうへと大きくシフトしてしまっている。
『目白文化村』(日本経済評論社)の108ページに、「文化村住宅の外観の和風洋風別分布図」という図版が掲載されている。当時の第一・第二文化村の街並みを再現した、たいへん貴重な図面の労作だ。でも、この図版の一部の家々が、当時、実際に家々を見た方の記憶と必ずしも一致しない。また、後日ご紹介する予定の、佐伯祐三が描いた目白文化村の家々(ついに文化村を描いた作品を見つけた)の配置とも一致していない。1936年(昭和11)の空中写真を眺めても、「和」と「洋」とですんなり合致しそうもない家屋もありそうだ。
改めて、当時と現在との視座の大きなズレを意識しつつ、取材や表現の困難さを実感している。
■写真上:新聞のチラシ広告などでよく見かける、建売住宅地の鳥瞰イラスト。
■写真下:左は、第一文化村にあったK邸。1945年(昭和20)4月13日夜半の空襲で、隣接する文化村秋艸堂Click!とともに焼けている。右は、最近リリースされた日本の木造住宅。このような家は、もはや「西洋館」とも呼ばれないし、「ライト風」が意識されることさえほとんどないだろう。
★その後、第一文化村と第二文化村は4月13日夜半と、5月25日夜半の二度にわたる空襲により延焼していることが新たに判明Click!した。
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