池上から目白までつづく光の帯。 [気になるエトセトラ]
以前、ここで目白の感応寺Click!について書いたが、この巨刹には池上本門寺からわざわざ僧侶が派遣されてきていた。感応寺が破却されるとともに、寺内の仏像や仏具の一部もまた、本門寺へと引き取られている。感応寺と本門寺との関係は、同じ日蓮宗の寺だからなのだろうが、もう少し関わりが深いように見える。その関わりとは、いったいなんだったのだろう? 実は、江戸期から戦前までつづいた、日蓮の高弟・日朗にちなんだ「万灯会」(まんどうえ)の行列にもちなんでいるのではないだろうか?
万灯会の行列は、池上本門寺を出門すると目黒村から渋谷村を突っ切って北上をつづけ、内藤新宿から雑司ヶ谷までつづいていたという。高田村や戸塚村、各落合村からも、参加する人々が大勢いたようだ。昭和初期ぐらいまで、何千人だか何万人だかの信者が参加して盛大に行われていたようだが、いまではまったく忘れられてしまった行事だ。もっとも、本門寺の万灯会は、いまだに賑やかだけれど・・・。大正期には、池上本門寺を発した行列の先頭が、雑司ヶ谷の鬼子母神にへ到着しても、本門寺にはいまだ出発を待つ行列が待機していたという。ものすごい長さの提灯光の行列が、池上から目白までつづいたことになる。
大正末あたりの行列コースは、現在の地名表現でいうと大田区から目黒区を横断し、渋谷区から新宿区へと抜けて明治通りへ入ると、そのまま豊島区の雑司ヶ谷までつづく、直線距離でおよそ16kmほどとなる。実際には、25kmぐらいの行程だろうか。夕暮れとともに、本門寺境内には中野、落合、新宿、渋谷などに在住の信者たちが集合し、午後7時ごろから先頭が出発。提灯を手に、経文を唱えながら団扇太鼓をたたいて歩くから、そのうち行列は期せずしてランニングハイ状態となり、夢見心地の3~4時間をすごして目白にたどりついたようだ。先頭が鬼子母神へと到着するのは、午後10時~11時ごろだった。
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(略)明治通りを北上して目白通り、雑司ヶ谷の鬼子母神に至る長町場でして、行列の先頭が目的地鬼子母神の境内に着いているのに、池上の本門寺ではまだ動かない行列が残っているというものですから大変な灯のデモンストレーションです。
十数里の道、街道が延々と灯に埋めつくされて、何とも壮観です。提灯の数も並べた趣向も様々で、宗旨の違いもここでは問題になりません。何しろ半纏、股引、手に団扇太鼓で、テンツクテンテン、南無妙法蓮華経、一貫三百アどうでもいいと口々に叫び合って、灯と人の熱気で寒いのに皆汗みどろになって次第に団扇太鼓を叩く手に力が入り、皆が昂奮して夢中になっております。
(岩本通雄『江戸彼岸櫻』より)
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当時は、沿道にも家屋はまばらで、信者たちが夢中でたたく太鼓の音は、それほど気にならなかったのかもしれないが、いま同じことをすれば苦情が殺到するだろう。日蓮宗の信者が朝夕に太鼓をたたくだけで、騒音防止条例違反で訴えられかねない状況なのだから。このイベントに参加せず、まったく信者でもない人たちも、その夜はそれなりに楽しんだようだ。特に子供たちは、目白通り沿いに並んだ夜店が楽しみだった。
万灯会の行列は、江戸時代からつづく行事だったが、池上と目白とを光の帯で結ぶ発想は、そもそも雑司ヶ谷の鬼子母神が目的地だったのではなく、もとは雑司ヶ谷旭出の感応寺をめざして始まったのではないか? 清戸道(目白通り)の北側、下落合村に隣接して感応寺が完成するとともに、大江戸西部でもっとも大規模とみられる行事が企画されたのではないか? 感応寺は、建立からわずか5年で破却されてしまうが、目的地を失った万灯会行列は、同じ雑司ヶ谷の鬼子母神をめざした・・・、そんな気がしてならない。
■写真上:千登世橋から見おろす都電荒川線。大正期に明治通りを進んできた万灯会の行列は、千登世橋が見えるこのあたりまでくるとホッとしただろう。
■写真下:感応寺の惣門、あるいは中門があったあたりにある目白庭園。夏になると、琥珀色の羽が美しいギンヤンマを観に出かける、わたしの好きなスポット。
コジックスさん、nice!をありがとうございました。<(_ _)>
by ChinchikoPapa (2006-11-04 20:11)