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ビンボー鍛冶屋、やーい! [気になるエトセトラ]

 わたしは、絵画や建築や仏教彫刻も好きだが、工芸品も大好きだ。これは、祖父の家Click!にいろいろなものが転がっていたのと無関係ではないだろう。中でも、子供のわたしでさえ刀剣の魅力には圧倒された。刀剣美術は、日本の工芸技術のほぼ全分野がかかわる「総合芸術」という点でも、他の分野には例を見ない。いまでも刀は大好きで、下落合にある飯田高遠堂さんをときどき覗いたりするし、手入れ用の丁子油(ちょうじあぶら)や打ち粉は、ここで調達している。
 きょう11月8日は、1年に一度のふいご祭りの日だ。江戸期の刀鍛冶は仕事を休んで、火床(ほと)の神(巷間では竈の神)である三寳荒神(さんぽうこうじん)へ、菓子やみかんを備えて祝う。そのうち、近所の子供たちが「鍛冶屋のビンボー、ビンボー鍛冶屋、やーい!」と囃しながら集まってくると、刀鍛冶は三寳荒神へ供えた大量の菓子やみかんを子供たちへ投げつけながら、「黙れ、うるさいガキどもめ!」と大盤振る舞いをする日。鍛冶屋の神の供物である菓子やみかんを食べると、次の1年間は風邪を引かないという言い伝えがあるので、子供ばかりでなく大人たちまでが「ビンボー鍛冶屋、やーい!」と囃しつつ、低頭しながらみかんを譲ってもらっていた。武家身分の刀鍛冶工房へ、町人たちが悪口を言い立てながら押しかけては、菓子や水菓子(果物)をせしめていく無礼講の祭りだ。朝から夜までトンテンカンという、鍛えの鎚打ちの近隣騒音に対する、ご近所への配慮や還元という意味も、ふいご祭りにはあったのだろう。

 江戸時代の刀鍛冶は、ほんとうにビンボーだった。以前、江戸期に刀を所有していたのは武士だ・・・という、大きな錯覚Click!について書いた。戦らしい戦が絶えた江戸前期、刀をいくら造っても売れず、刀剣店の顧客は武家からおカネを稼いでいる町人へと大きくシフトした。それでも生活の立たない刀鍛冶は、野鍛冶(農具鍛冶)へと転向していった。大坂(阪)は田島町の団七Click!が刀を持っていても、なんら不思議ではなかったのだ。長谷川時雨Click!の親父さんは、剣術道場に通った腕の立つ剣客だけれど、御家人株を買う予定だったとはいえ別に武士ではなく、日本橋は通油町の根っからの町人だ。
 江戸の後期になると、外国船が日本近海へ頻繁に出没するようになり、防衛のニーズから再び武士の間にも刀が売れるようになる。新々刀と呼ばれる、江戸後期から幕末にかけて造られた作品は、昔日の実戦刀を模倣した体配(刀のスタイルやデザイン)の作品が多く、日本橋浜町の秋元藩中屋敷に籍を置いた、水心子正秀を中心に産まれていった。その弟子に、荘司箕兵衛(みのべえ)という山形出身の男がいる。秋元藩が山形から館林へと移封される前から、水心子正秀について作刀を学び、のちに独立して下谷御徒町に工房をかまえている。
 師の水心子と同様、秋元藩の藩工を勤めてはいたけれど、給与は微々たるものだったのでたいへん貧乏したようだ。連れ合いが炭屋の娘だったので、火床の松炭には困らなかったかもしれないが、藩工だけではとても食べていけないので、多くの注文打ち(顧客が刀鍛冶を指名して注文する作品のこと)をこなしたり、さまざまな作品を造っては刀屋へ卸していたのだろう。刀の茎(なかご)には「大慶直胤」、大枚(40~50両はかかったといわれる)をはたいて手に入れた受領後は、「荘司筑前大掾直胤」「荘司美濃介藤原直胤」などと銘切りしている。
 
 わたしは、江戸全期を通じてこの荘司箕兵衛(直胤)と、娘の婿養子である荘司次郎太郎(直勝)の作品がもっとも好きだ。このふたりは、いわゆる刀の五箇伝はもちろん、新刀(江戸前期の作品)をはじめ歴史上のどのような伝法や作風でも、ほんとうに器用にこなして破綻なく造れる実力を備えている。当時、もっとも人気の高かった相州伝をはじめ、備前伝、大和伝、美濃伝・・・と、あらゆる流派の作に通じていた。それほど、勉強や研究に熱心だったのだろう。おそらく、腕前では師である水心子正秀を、大きく凌駕していたと思われる。
 刀の造りには、それほど大きな手グセはなく、とてもまとまりがよくスマートなのだが、どこかわからないけれど一抹の垢抜けなさが漂うところがなんとなくいい。その垢抜けなさは、いわゆる野暮ったいというのとは少し違う。荘司箕兵衛の、とても生真面目で誠実な職人の心を、どことなく映しているように思えるのだ。ほんのわずかな垢抜けない感覚が、どんなに錵(にえ)の強い大胆な焼き刃をわたしても、作風が派手かつ下品には転ばず、シブくまとまっているように観える秘密なのかもしれない。武器としての側面を持つ、コワイ刀であるにもかかわらず、どこかほのぼのとした感覚をおぼえる不思議さ。もともと東北は貧家の出身だというところから、箕兵衛の朴訥で真摯な性質もいっしょに作品に宿っているのかもしれない。
 婿養子の次郎太郎直勝は、刀工にしてはめずらしく上総(千葉は鍛冶場がない不毛地として語られることが多い地域)出身なのだが、義父の気風を受け継いだのかとてもマジメで洗練された作風を示している。もっとも、師と同じく派手さはまったく感じられないが、箕兵衛の垢抜けなさは消えて、万人うけしそうなスマートな作風を見せている。箕兵衛は、娘婿の次郎太郎が一人前になると工房をまかせて、自分は全国を股にかけてあちこち鍛冶旅をしてまわった。鍛冶旅とは、旅先にある刀鍛冶の工房などへ逗留しては、地元の刀工を集めて江戸の先端技術の「講習会」を開いたり、地元の直胤(箕兵衛)ファンのために作刀したりする、物見遊山もかねた気ままな旅行のこと。だから、全国各地に箕兵衛の貴重な作品が残ることになった。


 先日、浅草へ行ったついでに、田原町の本然寺へと寄ってきた。子供のころ六区西側の田原町へ出かけると、浅草の十二階(凌雲閣)をそのままに模した森下仁丹の「仁丹塔」があって、あまりの高さに見上げたものだ。その仁丹塔跡から北へ、旧・国際劇場(浅草ビュー・ホテル)前を通って300mほど行くと、左手へ折れたところに本然寺がある。ここに、荘司箕兵衛(直胤)と荘司次郎太郎(直勝)の墓が、昔から変わらずに現存している。師の箕兵衛は少し大きめ、弟子の次郎太郎はやや小さめの墓石が、ふたつ仲よく並んで建っている。いちおうは武家の墓らしく、奥方や娘たちの墓標がないのが、ちょっと寂しい。それとも・・・。
 箕兵衛が、物見遊山を半分かねた鍛冶旅へ出るたび、チャキチャキ町育ちの奥方はなにかとうるさかったろうし、その娘婿の立場である次郎太郎も、いろいろ連れ合いには苦労したのかもしれない。だから、死んだあとは「ひとり墓にしてくれ~!」と懇願したものだろうか。

■写真上:本然寺にある荘司美濃介直胤(左:箕兵衛)と、娘婿の荘司直勝(右:次郎太郎)の墓。
●切絵図:下谷御徒町あたりの尾張屋清七版『東都下谷絵図』(1862年・文久2改訂版)。御徒町通りに面して、荘司箕兵衛と荘司次郎太郎の工房はあった。「荘司三の平」という文字が切絵図にも見える。左手にある荘司弥門の家は、娘婿である次郎太郎のニ男、つまり箕兵衛の孫の工房。
■写真中は、荘司直胤(箕兵衛)の肖像。普段の身なりとは異なり正装して、刀鍛冶らしくいかにも頑固そうでいかめしく描かれている。は、本然寺の境内に残る古い稲荷塚。いにしえより、なんらかの鋳成神との謂れでも江戸期まで残っていたので、この寺に葬られたのだろうか。
■写真下は、荘司直胤(箕兵衛)作の平造り寸延び短刀(脇指)。遠眼だが、刃文は互ノ目丁子(ぐのめちょうじ)のようだ。は、「荘司美濃介藤(原)直胤(花押)」の銘が切られた押形。筋違いの鑢目が美しく、箕兵衛のマジメで几帳面な性格がよく表れている。「七十二翁」と彫られているが、彼は長命で1857年(安政4)に79歳で没している。


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ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2009-08-19 19:41) 

ChinchikoPapa

こちらにも、「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>漢さん
by ChinchikoPapa (2019-01-23 19:56) 

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