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高橋お伝の弁護をしよう。 [気になるエトセトラ]

 南千住の回向院に、高橋伝のほんとうの墓はあるのだが、谷中墓地にも辞世の歌を刻んだ石碑が建っている。もっとも、こちらは『高橋阿伝夜刄譚』(たかはしおでんやしゃものがたり)でさんざん商売をした仮名垣魯文が、気がとがめたのか自筆を碑に彫らせて建立したものだろう。のちに魯文は、事実誤認と取材不十分を認め新聞紙上で(読者とお伝に?)謝罪している。黙阿弥も『綴合於伝仮名書』(とじあわせおでんのかなぶみ)という芝居を書いているが、こちらはヒロインをいちおう「玉橋お伝」と“仮名”にしてはいる。でも、ほどなく谷中のほうが墓所のように思われて、彼女の七回忌はここで鳴り物入りで賑やかに行われたらしい。
  暫くも望みなき世にあらんより 渡し急げや三つの川守
 高橋伝の辞世歌だが、稀代の「毒婦」として彼女の名が残るのは、おそらく後世に描かれたことさらスキャンダラスな新聞記事や草子(読物)、講談、芝居などによる、無責任な脚色がほとんどだろう。忠臣蔵Click!とまったく同じセンセーショナリズムが、明治になっても変わらずに巷間で活きていたのがわかる。ハンセン病の夫を抱えて、ふるさとの上州を追われ、ほどなく横浜で借金を重ねた看病の甲斐もなく夫に死なれ・・・と、彼女の身に次々と起きた不幸の数々は、今日の眼から見れば周囲の差別観や男たちの狡猾さに呆れこそすれ、およそ情状酌量だらけの人生だ。
 それが、女が男を殺害したという珍奇さから、当時のマスコミを中心に「毒婦お伝」や「お伝地獄」のイメージが捏造されていった。介護して死なれた夫までもが、のちには毒殺されたことになってしまう。浅草の連れ込み宿で、客を殺し11円(魯文草子では200円)を奪ったお伝は、死罪を言い渡されて市ヶ谷監獄に収監された。当時、死刑を言い渡された罪人は、いまからは信じがたいことだが執行を絞首刑か斬首刑から選ぶことができた。お伝は、斬首刑を選択する。
 
  子を思ふ親の心を汲む水に 濡ゝる袂の干るひまもなし
 高橋伝が市谷監獄でこしらえた一首だが、これらの歌が後世に残されているのにはわけがある。斬首刑の執行人、八世・山田朝(浅)右衛門吉亮(よしふさ)が歌詠みの宗匠だったのだ。いや、山田家は三世・吉継(よしつぐ)のときから歌の宗匠資格を求めるようになっていた。「首斬り役人」(幕府から知行を得ていたわけではないので、厳密には役人ではない)を勤めるうちに、罪人が辞世の歌を詠む機会に何度も出くわし、また執行前に難しい漢詩を朗々と吟じられて、その意味がわからず恥をかいたことが何度もあった。だから、教養が高くなければ「首斬り役」は勤まらないということで、山田家ではことさら宗匠に匹敵する歌詩への教養を高めることになった。
 山田朝(浅)右衛門吉亮は冷静な執行吏にしてはめずらしく、高橋お伝の執行をしくじっている。刑執行を見学していた横瀬夜雨の『太政官時代』(明徳出版社・1929年)でも、当の山田吉亮へのインタビューによる篠田鉱三の『明治百話』(岩波書店版・1996年)でも、斬りそこなった情景が記録されている。処刑前には落ち着いていた彼女だが、いざ執行する土壇場になって、最期にひと目だけ愛人に逢いたいと騒ぎ出した。「お待ちになって!」と声をかけられつづけ、首座がすわらずに彼女の後頭部を打ってしまった吉亮も無残だが、最期には「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えながら、斬りやすいように首を前へ伸ばしたお伝も哀れだ。
 
  
 (前略)押え人足が左右から押えると、後の一人がおでんの足の拇指を握っています。これは向こうへ首が伸びるようにするためです。いよいよとなると、「待ってくれ」といいます。何を待つのかと思っていると、情夫に一眼逢わせてほしい、と頼むんです。「よし逢わせてやろう」といいながら、聞届けられるものではないから、刀に手をかけると、今度は急に荒れ出して、女のことだからキャッキャッと喧ましい。面倒なので検視の役人に告げようとすると、安村大警部が首をふって居られた。そこで懇々とその不心得を説いて斬っちまいましたが、斬り損ねたので、いよいよ厄介でした。死ぬ間際までその情夫の名を呼びつづけていました。   (篠田鉱三『明治百話・上』より)
  
 同じ証言の中で、山田吉亮は落ち着いたお伝の態度を見て、「手前が手がけた女の中では一番したたかもの」(同書)と断じているが、そこに世間のスキャンダラスな捏造記事やこしらえ話による予断はなかっただろうか? また、同日に刑を執行される男がブルブル震えているのを見て、お伝は「お前さんも臆病だね、男の癖にサ、妾(わたし)を御覧よ、女じゃァないか」(同書)と励ますのだけれど、これがまた山田をはじめ周囲にはふてぶてしく映ったようだ。執行直前の半分ふてくされたような態度に見える30歳のお伝に、あることないことをデッチ上げられてレッテルを貼られた人間の、投げやりで絶望的な開き直りが感じ取れないだろうか?
 高橋お伝が、最後の斬首刑人のように言われることが多いが、これも誤りだ。先の『太政官時代』によれば、お伝のあとにも20代の女性の斬首刑がつづいて執行された記録が残っている。こちらはお伝とは異なり、静かな最期だったと記載されている。

■写真上:谷中墓地に残る、高橋お伝の石碑。仮名垣魯文筆による辞世が刻まれている。
■写真中は、事件を報じる当時の新聞。お伝が捕縛された直後から、センセーショナルな報道合戦がはじまり、「毒婦お伝」は実像の高橋伝からすぐに乖離しはじめた。は、『綴合於伝仮名書』の芝居絵。黙阿弥はさすがに気がとがめたのか、“玉橋お伝”と仮名にしている。
■写真下は、市谷監獄へ出仕する八世・山田朝(浅)右衛門吉亮。当時の新聞イラストには、執行吏の姿が全員洋装に描かれているが、髷を落としたザンギリ頭が異なるだけで、江戸時代とほとんど変わらない装いだった。正装をしているので、腰の刀はニ尺三寸五分の有名な二代・関兼元(孫六)だろう。は、高橋伝のポートレートで一度めの結婚時の写真か。享年30歳。


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YUKO

参考にさせていただきました(^^)
by YUKO (2012-12-07 23:14) 

ChinchikoPapa

YUKOさん、ごていねいにコメントをありがとうございます。
芝居や講談、あるいは無責任な読売(かわら版)によって、実際にあった経緯とは180度異なる内容になってしまった事件やエピソードは、おそらく枚挙にいとまがないんじゃないかと思います。詳細な記録や伝承が残っている場合には、あとから細かな検証ができますけれど、そうでない場合は当時の時代や世相を踏まえ、想像するしかないですね。
by ChinchikoPapa (2012-12-07 23:37) 

おきゃん

高橋お伝をはじめ、鼠小僧も刑死者ですから、旧小塚原の回向院に埋葬されるのが当然ですよね。従って、両国の回向院にある鼠小僧のお墓も、彼を英雄視する有志が建てた記念碑のようなもの。皆さん、それ分かっていておまえだちを削っているのでしょうか?私は、旧小塚原の回向院の墓石は、バチが当たる気がして削る勇気がありませんでした。墓石の下に散らばっている砂を持ち歩いていたら、スロット出まくりです。やはりこちらが本物だと断言したい。
by おきゃん (2014-01-02 22:45) 

ChinchikoPapa

おきゃんさん、コメントをありがとうございます。
本所回向院の鼠小僧石碑は、確か手前に建立されたもので三代目だったでしょうか。いまでも、だんだん欠いて持ってかれるので、少しずつ丈が低くなっていきますね。もっとも、前面の石碑は「削り専用」碑だそうですから、またしばらくしたら建て直すんでしょうが・・・。
うしろの、貴重な本来の石碑には、鉄網がかけられて削れないようになっていますね。おそらく、みなさんわかって削っているんでしょう。墓所の砂でそれほどのご利益なら、碑石はもっと効果があるものでしょうか。w
by ChinchikoPapa (2014-01-02 23:31) 

たかはし かんじ

「高橋お傳を弁護しよう」を読ませて頂きました、実は私もお傳を弁護するためいろいろと勉強を致しました。
私はお傳の養女先と親戚関係にあります、またお傳の夫波之助の家とも縁があります。私のブログ「よみがえれ高橋お傳」を載せています。宜しければご一読頂ければ幸いです。
by たかはし かんじ (2018-11-19 19:55) 

ChinchikoPapa

たかはしかんじさん、コメントをありがとうございます。
裁判記録から、詳細に掘り起こされているのですね。のちほど、ゆっくり拝見いたします。
「はじめに」にも書かれていますが、この事件は地域性への先入観的な差別(報道に見られる「悪口雑言」)と、その地域人への予断と偏見に満ちみちた「事件」だと思います。おそらく彼女自身も、裁判中からそれを感じ取り、なげやりな精神状態に追い込まれていったのではないかと想像しますね。
by ChinchikoPapa (2018-11-19 21:54) 

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