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そして、山口智子『反省文ハワイ』の次は? [気になる本]

 わたしが行ったことのない、いやあまり行きたくない「観光地」のひとつに、ハワイ諸島がある。たとえば、浦安へ散歩に出かけ、「青べか」の残り香や「浦安鉄筋家族」(爆!)の風情は楽しんでも、ディズニーランドへは出かけないのと同じような感覚だろうか? または、お気軽にはしゃぎまわって、なにも考えず無心に遊ぶことができない北海道や沖縄と、どこか共通するうしろめたい感覚がひそんでいるからかもしれない。
 山口智子の『反省文ハワイ』(rockin’on)を読んでいたら、そんな感覚がどこからか呼び覚まされてきたようだ。ハワイ(正確にはハヴァイイ)の「観光地」は、この本の中にはほとんどまったく登場しない。なぜ、ハワイの踊りでもない「フラダンス」が、ハワイで踊られているのか? なぜハワイ語による会話が、長い間にわたって禁じられてきたのか? 軍隊に抑圧され、資本に押しつぶされた先住民の歴史描写は、そのまま日本の「単一民族国家」観の過去へと直結してくる。
 彼女は、ハワイの古老たちの話をたんねんに採集しては、記録しつづけていく。古老から古老へ、紹介者からそのまた紹介者へ、彼女の取材はこの本に限らず、徹底して地元の語り部がつむぎ出す物語を、たどりつづける方法論に徹してきている。
  
 「(前略)ペレという女神がカヌーに乗り、サメをお供にハワイにやって来た。
 サメは島を求め突き進む男の象徴。そして、女神ペレこそ初の女性ナビゲーターと言えるかもしれない。ペレがやって来て、ハワイの島々が誕生していった。ハワイ諸島の地図を見てごらん。ペレが横たわった形に見えるよ。
 そうだ、君の国、日本のアイヌも、海洋民族だったと言われているよね、知ってるかい?」
 フランシスの話は、三六〇度の方角から飛んで来るボールみたいだ。ぐるっと神経を張り巡らせていないと、うっかりつかみ損ねてしまう。彼の一球一球は、直球あり変化球あり。受けとめるのに息がきれるが、ハッとするような見事なストライクだ。
  
 ポリネシア系古モンゴロイドに共通する神話、中国大陸や朝鮮半島に展開した新モンゴロイドの間には見られない、日本にも通底する神々の物語=女神による国産み神話だ。もうひとつ、わたしは江戸後期に蝦夷地を克明にルポしてまわった、松浦武四郎の膨大な仕事を思い出した。アイヌ語を学び番屋から番屋へ、そしてコタン(村落)の古老から古老へと訪ね歩いた幕府の役人であるはずの彼は、松前藩と大坂商業資本のあまりの暴虐ぶりにキレて、しまいにはなにもしない無策な幕府を批判して役人を辞めた人物だ。取材をつづけていく松浦は、ある時点を境にメーターの針がレッドゾーンへと大きく振り切れ、物の見方や考え方がクルリと180度ひっくり返ってしまう。
 
 ハワイを見つめる山口の眼が、180度ひっくり返ってしまった特異点は、なにがきっかけだったのだろう? 若いころ、雑誌のモデルでハワイの「名所」や「観光地」を訪れてはグラビアの撮影をしていた。でも、それらの“ハワイ”が、本来のものとはなんの関係もない商業資本による“ディズニーランド”だと気づいたとき、「反省文」をしたため始めようと思いたった。「ほんとうにごめんなさい。知らなくてごめんなさい。たいへん失礼いたしました」・・・これが、この本に通底する一貫した姿勢だ。
 いや、彼女の眼差しは“ハワイ”よりもずっと以前から、もっとマクロな視界を持っていたのだろう。文明が衝突を繰り返し争いが絶えなかった西アジアの国々、マゼランやコロンブス、クックらが「発見」した大陸や島をめぐるルポルタージュ。したり顔で説教するキリスト教の宣教師の次には、必ず軍隊が送り込まれて先住民を抑圧あるいは虐殺していく世界各地のそんな図式の中、山口はそれ以前の世界を知る語り部を求めて、丹念に歩きまわりながら記録していったようだ。
 これらの仕事(ドキュメンタリー)は、衛星放送で流れはしたけれど、観た人は非常に少なかったに違いない。わたしも、すべてのシリーズを観たわけではないし、『反省文ハワイ』が初めて読んだ彼女の著作だ。そのシリーズの最後(?)が、日本にもっとも「近い」ハワイだったというところに、彼女の意識の中で日本への回帰現象が徐々にはじまっているのを感じてしまう。「じゃあその先の、母国である日本の状況はどうなのか? 自分自身はどうなのか?」・・・。本書を読むと、常にその問いかけが山口の頭の中で、繰り返しグルグル反芻されているのが伝わる。
  
 壁やビルやスケジュールに埋もれた狭い世界で、どんよりとその日その日を過ごし、すぐ手にとれる御褒美ばかりを追っていると、大きなものが、どんどん見えなくなる。私も、車や人の波に慣れ、酸素の純度に麻痺しっぱなしで随分生きてきた。自然と共に在ることを忘れてきたせいか、ますます気が短くなったことにも気づかなかった。すぐ手にとれる利潤確保が第一。目標はいつも、短期的で短絡的。何十年先、何百年先の世代のことまで、考えを巡らせたこともなかった。今この瞬間の先に、未来が生まれる。今の責任を免れても、そのつけは、何百年後に何千倍にも膨れあがるだろう。そう分かっていても、今日と明日の快楽が最優先。気づけば、この無責任、無感覚が、巡り巡って人の心を傷つけている。その現実を突き付けられて、やっと、もぞもぞと何かを感じ始める。
 知ろうとしてこなかった自分。なんだか、のっぺらぼうみたいなモンスターだ。「知らない」という身軽な立場があまりに気楽で、目も耳も自ら喜んでどこかへ置き忘れてきた。
  
 
 なにかを感じ、なにかを知り、それについて発言するということは、必ず巡りめぐってわが身にハネ返ってくる・・・という鉄則。言いっぱなしのまま、自身ではなにもしないし動かないヒョーロン家人間やコメンテイター人間がやたら多いこのごろ、山口のあたりまえでポジティブな姿勢が、ことさら貴重で頼もしく思えてしまうゆえんだろうか?
 「言ったら動け」・・・主体性の基本だけれど、久しぶりに考えながら感じながらグングンと突き進む、勇敢でいさぎよい女性を見たような気がする。ふだん、彼女はしゃべりが苦手なようだけれど、文章や写真はきわめて豊かで饒舌だ。

■写真:山口智子『反省文ハワイ』(ロッキング・オン/2004年)より。写真撮影も彼女。


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ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>さらまわしさん
by ChinchikoPapa (2014-08-01 21:15) 

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